ラスト・ドライブ VWビートル 歴史やヒット作を振り返る

公開 : 2018.08.04 16:10

終戦 生産計画の中断

KdF工場ではユンカース88の翼を作りはじめた。1940年には連行されたポーランドの婦人たちが軍用機の増槽製造に充てられるいっぽうで、KdFの軍用版無蓋車となるVW 82キューベルワーゲンの製造もはじまった。1944年には、アウシュヴィッツ-ビルケナウの収容所から連行されたユダヤ人が飛行爆弾Fi-103の製造にあたった。彼らは1カ月後にまたティエルスレの強制収容所へと送られた。

連合軍が迫りくる1945年はじめになると親衛隊は労働収容所を片づけ、収容者をベルゲン-ベルセンへ移送した。アメリカ軍は3月に「KdF市」を占領した。強制労働者は解放され、その後は連合軍軍用車の整備にあたることとなった。

それからのいきさつはよく知られるところだ。1945年6月5日、工場は英国軍電気機械技術部隊のアイヴァン・ハースト少佐に引き渡された。終戦までに33万6000のドイツ人がKdF購入のための貯蓄制度に加入したが、実際にクルマを手にしたものはひとりもいなかった。キューベルワーゲンこそ6年にわたり数千台が製造されたが、セダンのほうはわずかな数にとどまったのだ。そこで、英国軍司令部は占領下の輸送需要に対応するため、フォルクスワーゲンに2万台のセダン生産を委託したのだった。

ハーストは生産を再開したが、のちにこのクルマの設計と治具を英国メーカーへ売却しようとした。だが商業的な成功は見込めないとされ、買い手はあらわれなかった。

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