グッドウッドのコースに帰郷 オースチン・ヒーレー100 明かされた歴史 前編

公開 : 2019.11.02 07:50  更新 : 2020.12.08 10:56

当初からモータースポーツが視野にあった

そもそもオースチン・ヒーレー100は、アールズ・コート(ロンドン・モーターショー)でデビューした瞬間から、レース参戦が視野に入っていた。アメリカの南カリフォルニアではカークラブによるレースの人気が高まっており、新モデルの販売にもつながると考えていた。

その結果、英国ワーウィックの工場で生まれた初めの4台は「特別なテスト車両」の扱いとされ、レース用マシンに割り振られた。登録番号はNOJ391とNOJ392、NOJ393の3つ。この4台はリアタイヤを覆い隠すスパッツとヘッドライト・フェアリングが装備され、耐久レース用のマシンとなった。

オースチン・ヒーレー100
オースチン・ヒーレー100

一方でオースチン・ヒーレーがレースデビューをしたのは1953年3月。グレガー・グラントとピーター・リースのペアで、ラリー・リヨン・シャルボニエールに参戦している。5カ月前にMWD360のナンバーで登録されていた。

1953年4月に2台の「特別なテスト車両」は、過酷なミッレ・ミリアに挑戦する。だが両車はクラッチとスロットルリンケージのトラブルで完走していない。このヒーレーは前後のバンパーが残され、ボディ形状も標準に近いものだった。ホイールはスチール製ではなくアルミ製に置き換わっている。

デビッド・シェールは、今回のDNH828のナンバーを付けたヒーレー100の初めてのオーナー。典型的なレース愛好家で、新しいオースチン・ヒーレーのターゲットとしてもピッタリだった。フロントガラスの位置を低くできるように改造し、スポーツカーから週末のレーシングマシンへ簡単に変身できた。

出荷直後からレースに出ていた個体

シェールは、両親がヒーレーの販売店をしていた環境のおかげで、新モデルをいち早く手に入れることができた。このヒーレー100も同様。ボンネットやボディパネルの数カ所に、ボディナンバー140の刻印が見える。

つまりDNH828は140番目に作られたオースチン・ヒーレー。正式に量産が始まってからは120番目となる。多くのクルマは北米へと輸出され、英国のオーナーへ渡ったクルマは多くはない。

オースチン・ヒーレー100
オースチン・ヒーレー100

DNH828は1953年8月18日にワーウィックの工場から出荷されると、9月6日にはシェールがドライブし、ブラントン・ヒルクライム・レースでクラス優勝を果たしている。クルマはほぼ工場出荷の状態のままで、低い窓に交換されていた程度だった。

9月12日にシェールはDNH828で第14回グッドウッド・メンバーズ・ミーティングに参加。プライベーターとして、サーキットデビューをしている。

1500〜3000ccと3000cc以上のクルマが混ざったクラスで、ヒーレーは午後3時過ぎにスタート。ジャガーXK120やアラード、フレイザー・ナッシュなども出場している。36台が完走し、ヒーレーは3位に入賞。フレイザー・ナッシュ・ル・マンのレプリカなどを相手に、基本的にロードカーながら健闘した。

シェールはその後もヒーレー100でレースに参戦し、1954年8月のグッドウッドに戻ってくる。クルマはバンパーが外され、フロントガラスもレース用のものに交換されていた。クラシックカーの専門店を営むビル・ロールズがレストアで仕上げた仕様は、この年のものだという。

後編ではレストアを遂げたヒーレー100を詳しく見ていこう。

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