【パリ生まれの青いモンスター】ル・マンを戦った848ccのDBル・モンスト 前編

公開 : 2020.05.09 07:20  更新 : 2020.12.08 11:04

戦後のル・マンで活躍したマシンの中に、熱意あふれるオーナーが創意工夫を凝らした1台が存在していました。今回は、スピードだけでなく、燃費効率や空力性能を武器に戦ったDBル・モンストを詳しく見てみましょう。

フェラーリに混ざって戦った小さなフレンチ

text:Jack Phillips(ジャック・フィリップス)
photo:Olgun Kordal(オルガン・コーダル)
translation:Kenji Nakajima(中嶋健治)

 
過酷なル・マン24時間レースでクラス優勝を争ったスポーツカーは、その事実だけで高く評価される。またレースの結果はどうあれ、目前を高速で走り去るマシンには、クルマ好きの気持ちを鼓舞する力がある。

資金力のあったアマチュアレーサーに当時の話を聞けば、目を輝かせて熱弁を振るう。レースは素晴らしい。サルテ・サーキットは、走りがいのあるコースだと。荷物に加わったトロフィーは、何よりの手土産となったはず。

DBル・モンスト(1959年)
DBル・モンスト(1959年)

1960年代に入ると、ル・マンには熱効率指数という考え方が登場する。小さなクルマの競争の中では、重要な位置を占めるようになった。

レースでの勝利には、名誉だけでなく大きな意味があった。1961年、性能指数賞の賞金は4000ポンド(54万円)。現在の価値でいうと9万ポンド(1215万円)ほどになる。ポケットマネーにするには大金だ。

フェラーリとアストン マーティンが、ミュルザンヌのストレートを疾走した当時のル・マン。小さなスポーツカーも負けじと彼らを追いかけた。アバルトやオスカをはじめ、ドゥーチェ・エ・ボネ、通称DBもクラス優勝のしのぎを削った。

今回の主役となる小さなフランス車、DBの起源は、第一次世界大戦前。シャルル・ドゥーチェとルネ・ボネとの結びつきによって生まれた。

シャルル・ドゥーチェの父がなくなると、家族経営のコーチビルダーは10代の息子に委ねられた。その年後、経験豊かなルネ・ボネが買い取り、体制は強化される。ドゥーチェ・エ・ボネ、DBの誕生だ。

性能指数賞を4度も受賞したDB

パリの南東、シャンピニー・シュル・マルヌのワークショップで、2人のエンジニアはシトロエン・トラクシオン・アバンをベースにしたレーサーを生み出した。戦後の経済が再建され始めると、DBも上向きになった。

ル・マンへの参戦は自然な流れ。DBは、小排気量車として性能指数賞を1954年から1960年にかけて、4度も受賞している。戦ったマシンは、主にパナール製エンジンを積んだ、HBR4とHBR5だった。

DBル・モンスト(1959年)
DBル・モンスト(1959年)

HBR4やHBR5からは、派生モデルもいくつか誕生している。タンクと呼ばれたミドシップのスパイダー、切り落とされたカムテールを持つブレッドバン風のストリームライナー、大きなグラスエリアが特徴のヴィトゥリンなど。そして今回のル・モンストも。

決して広く知られているクルマではないが、滑らかなボディがル・モンスト最大の特徴。筆者の目には抗しがたいほど魅力的に映る。

初代オーナー、ジャック・レイは、このマシンで1961年のル・マンに参戦している。アンドレ・ギルオーディンと、ジャン・フランソワ・ジャガーとともに。

その2年前の1959年、レイと彼のエンジニアでありレーシングドライバーのアンドレ・ギルオーディンは、当時のレース、ツール・ド・フランスへ参戦。111台の参加車両の中で8位という好成績を収めた。加えてGTカーとして、性能指数賞を獲得した結果が、重要な意味を持った。

レイがDBのマシンを購入したのは、レース2カ月前の6月。ニースからスパ・フランコルシャンまでの見事な戦いを繰り広げたのは、8月だった。

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