【振り返る】東京オートサロン、いかにして東京モーターショーを凌駕するイベントになったのか

公開 : 2020.01.17 10:50  更新 : 2020.01.18 11:50

1995年に起きた2つの力強い「追い風」

1995年にはオートサロンと日本カスタムカー界にとって、2つの劇的な出来事が起きる。

まずは1995年1月。第13回東京オートサロンに、日産自動車が自動車メーカーとしては初めて正式に出展。

1984年のオートサロンのようす。TOPSのチューンによるパンテーラが展示されている。 撮影:Kazu.Kono
1984年のオートサロンのようす。TOPSのチューンによるパンテーラが展示されている。 撮影:Kazu.Kono    Kazu.Kono

スカイラインGT-R(R33)のお披露目にクルマ好きが多く集まるオートサロンを発表の場に選んだのである。

東京ビッグサイトに場所を移した1997年第15回ではトヨタ自動車も初めてオートサロンに出展。続いて他メーカーも出展を始めることになり、健全なクルマ好きのためのイベントとして認知が進んだ。

そして1995年に起きたもう1つの画期的な出来事とは、保安基準における規制緩和である。

自動車部品やエアロパーツなどの取り付けに関し、保安基準に抵触しないパーツであれば、全長±3cm、全幅±2cm、全高±4cm、そして重量は±50kgまでの改造であれば届け出が不要となった。

車体に穴を開けるなど恒久的な取り付け方法でなければ、エアロパーツなどの外装パーツもそのまま車検OK。

ローダウンもスポーツマフラーも基準内ならOKとなり、以降、自動車メーカーもカスタムパーツやコンプリートカーの製作に積極的に取り組むようになった。

2000年代に入ると自動車業界全体に環境志向が高まるムードがあり、チューニングよりもカスタム、中身より外側を楽しむ出展が急増してくる。

2010年以降は輸入車メーカーの出展も増加してくる。2015年にはついに、来場者が30万人を突破した。

発起人、この盛況ぶりをどう思っている?

東京オートサロンがモーターショーを凌駕するイベントになった理由を発起人である稲田氏はどう考えているのだろうか? オートサロン最終日の会場で稲田氏に聞いてみた。

「改造車もきちんと改造車検を通せば公道を走ることができる。アンダーグラウンドなイメージの改造車を日の当たる場所へと引っ張り出したいと考え、カーショーの開催を企画しました」

オートサロン発起人の稲田大二郎氏。
オートサロン発起人の稲田大二郎氏。

「ショーにすれば、改造車を多くの人に見てもらえる。理解してもらえるきっかけになると考えたからです」

「当時、改造車と言えば暴走族のイメージでしたので警察もかなり警戒していましたが、実際そこに集まったのはクルマが好きな普通の若い子たち。これなら大丈夫だと、第2回以降の開催もいけると思いました」

「自動車メーカーの出展がオートサロンの発展に大きく寄与したことは確かです。大きくてきれいなメーカーブースは、ショーを華やかにしますが、かといってメーカーばかりを優遇することはありません。初期の頃からずっと一緒にやってきたチューニング&カスタムショップの存在なしに今の盛況はありえませんから」

「来場者、出展者がどんどん増え、自動車メーカーの参加が恒例となり、車検に関する法律も大きく変わっていき、さらに世界的な日本車人気も相まってオートサロンの盛況ぶりは一直線上でずっと上がって行ったと思います」

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