ポルシェ928似のヘッドライト 知られざるフィアット125 ヴィニャーレ・サマンサ(2) シャシー技術の高さへ驚く

公開 : 2024.06.09 17:46

ヴィニャーレ社で作られた、フィアット125 サマンサ 「世界で最も美しい4シーター」という誇張気味の売り文句 ロンドンのカジノ経営者が英国への輸入を牽引 知られざる1台を英編集部がご紹介

英国で売れたヴィニャーレ・サマンサは27台

1960年代に入ると、大手の自動車メーカーは少量生産モデルも自社製造へ切り替え、イタリアのカロッツエリア、ヴィニャーレ社は穴を埋めることへ必死だった。独自ブランドラインのモデルは生産コストがかさみ、収益性が良いわけではなかった。

1967年には、フィアットのバンをハイルーフ化するなど、1日に25台をラインオフするまで成長していた。だが、ヴィニャーレ社は資金繰りが悪化していく。

フィアット125 ヴィニャーレ・サマンサ(1967〜1970年/英国仕様)
フィアット125 ヴィニャーレ・サマンサ(1967〜1970年/英国仕様)

創業者のアルフレッド・ヴィニャーレ氏は、1969年に自社株の90%をアレハンドロ・デ・トマソ氏へ売却。社長としての座を守ろうとした。ところがその数日後、彼は交通事故でこの世を去ってしまう。

英国へフィアット125 ヴィニャーレ・サマンサを輸入していたフリクソス・デメトリウ氏も、1969年にカービジネスから撤退。複数のイタリア車を合計800台輸入したが、自身のカジノの営業ライセンスが更新され、事業多様化の重要性は縮小していた。

1970年に、フリクソスは売れ残ったフィアットたちをキプロス島へ輸送。温暖な気候はクルマに優しかったが、彼はその直後に命を落としている。

英国で売れたサマンサは、27台のみ。合計何台が生産されたのか明らかではないが、ヴィニャーレ社は1日に6台をラインオフしていた時期もあったようだ。そのペースが事実なら、数100台が作られていても不思議ではない。

肉厚なボディを誤魔化す黒いサイドシル

今回ご登場願ったホワイトのサマンサは、カーコレクターのダレン・カニンガム氏が現オーナー。彼は他に3台所有しているというが、レストア中だそうだ。初代オーナーは、カナダの女優、リンダ・ソーソン氏だった。

現在76歳のリンダが乗っていたのは、20代の頃。自ら購入したのか、フィアット・ヴィニャーレ・ガミーネの広告に出ていた報酬の一部として、贈られたのかはわからない。

フィアット125 ヴィニャーレ・サマンサのデザインスケッチ
フィアット125 ヴィニャーレ・サマンサのデザインスケッチ

彼女は、ハリウッドへ移住するまでの1年半ほどを、一緒に過ごしている。恐らく、気に入っていたはずだ。

オリジナルの塗装色はシャンパン・ゴールドだったものの、後のオーナーによって塗り替えられている。レストアを決めた際、当初の塗料との調色が難しく、ホワイトが選ばれたようだ。

このオーナーは、16万km以上も走行距離を増やした。それまでに、ボディやシャシーは劣化が進んでしまったらしい。現在は、適度にヤレた感じがいい味を出している。

近づいて観察すると、サマンサの佇まいは悪くない。スタイリングを描き出したのは、ヴァージニオ・ヴァイロ氏というデザイナー。一部では彼は製図が専門だったという情報もあるが、才能があったことは間違いないだろう。

サイドシルはブラック・アウトされ、ベルトラインより下の肉厚さを巧みに誤魔化している。ホイールは当時物のクロモドラ・アルミ。大きめのホイールアーチを、綺麗に満たしている。純正は、ホイールキャップ付きのスチール・ホイールだった。

記事に関わった人々

  • 執筆

    リチャード・ヘーゼルタイン

    Richard Heseltine

    英国編集部ライター
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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