ウイリスMBからジープ・ラングラーへ 80年間の3世代を比較 自由のクルマ 後編

公開 : 2022.02.12 09:46

1941年以来、オフローダーのアイコンとして親しまれてきたジープ。英国編集部が3世代を比較しました。

大きな設計変更が施されたAMCのCJ-7

理由は定かではないが、第二次大戦中にウイリス・オーバーランド社のMBはジープというニックネームで呼ばれるようになった。ジープは戦争を通じて、欧州やアジア、アフリカにも広まった。

終戦までに、同社が生産したMBは36万8000台以上。フォードも、27万7000台をライセンス生産している。多くが戦闘で破壊されたが、生き残ったMBも無数に存在した。

カーキのウイリスMBとオレンジのAMCジープ CJ-7、ダークグリーンのジープ・ラングラー・アンリミテッド
カーキのウイリスMBとオレンジのAMCジープ CJ-7、ダークグリーンのジープ・ラングラー・アンリミテッド

その後、ウイリス・オーバーランド社はMBの民間向け車両を計画。1945年にジープCJ-2Aが発売される。基本的にはMBの設計に改良を加えたもので、スペアタイヤに大きなヘッドライトなど、使いやすさを高めていた。

同時にMBは陸軍向けの生産も継続しており、同社はオフロード・モデルでの成功を掴んでいた。好調を追い風に、SUVの原型といえるワゴニアや、ピックアップトラックのグラディエーターなど、モデルラインナップを拡大していった。

1950年、ウイリス・オーバーランド社は「ジープ」の商標登録を取得。ところが経営的には失敗し、カイザー・モーター社へ買収されてしまう。

1963年以降はカイザー・ジープへモデル名が改められるが、再び経営難に陥り、1969年にAMC(アメリカン・モーター・コーポレーション)社が買収。20年以上大きく変わらなかったジープへ大きな設計変更を施し、1976年にCJ-7型を発売した。

CJ-7型ではホイールベースが伸ばされ、車内空間を拡大。トランスミッションにオートマティックが追加されたほか、スチール製ドアとプラスティック製ルーフがオプションで用意されている。

ラングラーへ一新しクライスラー傘下へ

スタイリングやレイアウトなどはウイリスMBと重なる部分も多いが、軍用車両的なイメージはCJ-7型から消えていた。質実剛健さよりも、アウトドアの娯楽側にシフトしている。

運転席へ座ってみると、ダッシュボードに特大のメーターが並び、フォントが可愛らしい。シートは明るいブランのレザー張り。1970年代のアメリカを、あちこちから感じ取れる。

AMCジープ CJ-7(1976〜1986年/英国仕様)
AMCジープ CJ-7(1976〜1986年/英国仕様)

先に向けて細くなる、丸くカーブしたボンネットの眺めはウイリスMBに通じる。それでも、だいぶ乗用車ライクだ。写真栄えもするだろう。

発進させると、CJ-7型の気楽さにうれしくなる。ステアリングホイールの手応えは柔らかく、オフロードタイヤのおかげで感覚も薄い。乗り心地は落ち着きに欠け、舗装の小さな段差で跳ねるように揺れる。

オンロードでは、サスペンションは柔らかすぎる。ゴツゴツした岩が露出したような路面がジープのすみかだが、実際はアスファルト上で乗られることも多かった。

そんなユーザーの意見を聞いてか、1986年にAMC社はCJラインの生産終了を発表。YJ型のラングラーへモデルチェンジを図った。

コンパクトなボディに高いオフロード性能を備えつつ、乗用車に近い快適性と実用性が追加されていた。名前を変えるのに、充分な進化といえた。初期のラングラーはCJ-7型と基本設計は近かったが、メカニズムは全面的に一新されていた。

しかしラングラーの発表から間もない1987年、AMCをクライスラーが買収。オフロード・ブランドとして成功していたが、やはり経営は難しかったようだ。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ジェームス・アトウッド

    James Attwood

    英国編集部ライター
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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