シルバーアローの幕開け メルセデス・ベンツSSKL ストリームライナー 復刻版1932年式を体験 後編

公開 : 2023.08.12 07:06

1932年のベルリンに突如姿を表した、SSKL。シルバーアローという呼称を生んだストリームライナーを、英国編集部がご紹介します。

シルバーアローと呼んだラジオキャスター

ストリームライナー・ボディのメルセデス・ベンツSSKLは、技術者のラインハルト・フォン・ケーニッヒ・ファクセンフェルト氏が計算したとおり、最高速度230km/hを達成。オリジナルのボディより、20km/hも速かった。

かつて存在したベルリン・アヴス・サーキットは、約9.5kmのストレート2本をバンクコーナーで繋いだ高速コース。そこを20周して競うレース、アヴスレネンでは最高速度の高さが有利に働いた。

メルセデス・ベンツSSKL ストリームライナー(1932年/復元版)
メルセデス・ベンツSSKL ストリームライナー(1932年/復元版)

当時のクルマにとっては過酷なテスト環境ともいえ、連続での高速走行は信頼性を浮き彫りにした。コンチネンタルは1931年に新しいレース用タイヤを導入していたが、上昇する速度域に性能が追いついていなかった。

本番前のプラクティスで、プライベーターのマンフレート・フォン・ブラウヒッチュ氏は流線型ボディの能力を確信。リアアクスルのギア比をロングに変更し、低い回転数で高速域へ届くように改め、7.1L直列6気筒エンジンの負担を減らした。

1932年のアヴス・サーキットには20万人以上の観衆が押し寄せ、欧州各地のモータースポーツ・ファンがラジオに耳を傾けた。会場では、流線型のSSKLは1番の話題を集めた。愛情を込めて、「ザ・ガーキン(小きゅうり)」というあだ名が付けられるほど。

他方、ラジオ中継でキャスターを担当した、南西ドイツ放送協会のポール・レーベン氏は別の表現を選んだ。長いストレートを疾走する銀色のSSKLを目にし、「シルバーアロー」と呼んだのだ。

フィニッシュまでの15周で激しいトップ争い

記録の限り、このラジオ放送がメルセデス・ベンツのレーシングカーをシルバーアローと呼んだ、最初だったといわれている。それ以前のドイツ勢は、当時のナショナルカラーといえたホワイトに塗られることが多かった。

実際、メルセデス・ベンツのモデルSやSS、SSK、SSKLといったレーシングカーはホワイトに塗られ、ホワイト・エレファントと呼ばれていた。高速で走るクルマには適さない表現だったが。

メルセデス・ベンツSSKL ストリームライナー(1932年/復元版)
メルセデス・ベンツSSKL ストリームライナー(1932年/復元版)

レース序盤は、アルバート・ディーヴォ氏がドライブするブガッティ・タイプ54がリードしたものの、6周目にオイルパイプが破損。アルファ・ロメオのルドルフ・カラッチョラ氏が先頭へ入れ替わり、マンフレートのストリームライナーが猛追を続けた。

SSKLはストレートで観衆を沸かせたが、高速コーナーでは操縦が難しかった。スピードが高いぶん、コーナー手前ではブレーキに大きな負担を与えた。

他方、アルファ・ロメオ8C モンツァはボディが軽く、ブレーキは高性能でエンジンも軽快に吹け上がった。コーナリングが速く、脱出加速も鋭かった。

1932年のアヴスレネン・レースでは、この2台が最後までトップ争いを繰り広げた。フィニッシュまでの15周に、8C モンツァとSSKL ストリームライナーは何度も首位を交代している。

メルセデス・ベンツのレーシング部門を率いていた、アルフレッド・ノイバウアー氏の助言を受け、マンフレートはエンジンのパワーを温存。最高速の強みを活かすべく、長時間の負荷を抑えながら、終盤にハードプッシュする作戦を選んだ。

記事に関わった人々

  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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