「ベントレー・ボーイズ」とは? ある男と「The Autocar」、ベントレーの蜜月

2019.03.04

AUTOCARが祝したル・マン優勝

1927年6月24日、ロンドンにある高級ホテル、サヴォイのロビーは男たちの興奮に包まれていた。1924年のル・マン初制覇から2年間の不遇の時を越え、再びベントレーがサルテサーキットを席巻した、その祝賀パーティが催されていたのである。

パーティは世界最古の自動車メディアである「The Autocar」(現AUTOCARの当時の名称)が主催しており、この日の主役はもちろん、ベントレー3リッターでル・マンを制覇したJ.ダドリー・ベンジャフィールドとAUTOCARのスポーティングエディターであるサミー・デイビスだった。

自動車雑誌の編集者が腕利きドライバーである例は珍しくないが、トップレベルのモーターレーシングで成功を収めることは稀といえる。このことからも、デイビスが残した功績の大きさと、当時からのAUTOCARの格のようなものが感じ取れるはずだ。

また若干31歳という若さでイギリス製の究極のスポーツツアラーを作り上げるために立ち上がったW.O.ベントレーと、その躍進をレポートし続けたAUTOCARは、お互いに刺激し合い、高め合うような間柄だったことは想像に難くないのである。

今日のル・マンは専用開発されたレースカーによるスピードレースの様相を呈している。だが1920年代の草創期のル・マンは次々に登場する新型プロダクションカーの信頼性と性能をお披露目する、もしくは究極の耐久テストを敢行するためのステージとしてあった。

新進気鋭のベントレーを24時間もの間限界レベルのスピードでテストし、その圧倒的な成果を世界に向けて発信する。その試みによってベントレーの名前は瞬く間に拡散した。

ベントレー・ボーイズたちとともに、果敢にル・マンに挑戦した最初の10年間の功績が、これまでの100年とさらなる成長を遂げるであろう未来を支えているのである。