5.0LのV8エンジンによるフォーミュラーマシン F5000を振り返る 後編

公開 : 2019.09.14 16:50  更新 : 2020.12.08 10:56

5.0LのV8エンジンに巨大なタイヤ。高まる名声とお金。少しマニアックですが、50年前に欧州だけでなく各国でブームとなっていたF5000というカテゴリーのレースを、当時のドライバーの話とともに振り返ります。

レーサー、ブライアン・レッドマンが振り返る

translation:Kenji Nakajima(中嶋健治)

1972年、F5000でのレッドマンの不幸を横目に、幸運を得たのはグラハム・マクレーだったが、彼は大胆な発言や激しい気性で「カシウス(ローマの戦士)」と呼ばれていた。ニュージーランドのウエリントンで生まれたマクレーは、ドライバーとしてもエンジニアとしても、1972年までに成功を収めていた。タスマン・シリーズでの連勝のほか、SCCAのタイトルも獲得し、ヨーロッパでも多くのレースで勝利を上げた。

マクレーはロンドンの仲立人、ジョン・ヘインズの力を借りて、技術者のマルコム・ブリッジランドを起用。F1マシンのマクラーレンM19Aから発想を得たコークボトル・ラインを持つレダLT27を開発する。その後マクレーGM1へとマシン名を改めている。

F5000カテゴリーのマシン
F5000カテゴリーのマシン

さらにボディをボックス形状としたGM2をレースチームへ販売するものの、好調は長く続かなかった。スピードが出たものの信頼性が低く、ニュージーランド人ドライバーのクリス・エイモンが1975年に1勝を挙げただけに留まる。1973年10月には、マクレーが所有していたプール・ファクトリーは、ペンスキーのF1プロジェクトへと売却されてしまう。

だがマクレーはその後に26勝を挙げ、タイトルも4度獲得。1978年のオーストラリア・グランプリではワンオフ・マシンのGM3で優勝している。コクピット周りが透明なF5000マシンは最も有名な彼のマシンかもしれない。

1973年、ローラ社のアメリカの輸入業者だったカール・ハースは、シャパラルのボス、ジム・ホールの意見もあり、ドライバーにレッドマンを指名した。「わたしはスポーツカーのドライバーだと記憶されているようですが、アメリカF5000で戦った4シーズンはキャリアの中でも最高の時でした」 と振り返るレッドマン。 

タイヤが硬くドリフトしっぱなし

「1973年は惜しくも逃しましたが、1974年から1976年に掛けてはタイトルを獲得できたのです。1973年は、ヨーロッパでフェラーリをドライブしていて、F5000は2戦欠場しています。そのかわりジョディー・シェクターが5勝を挙げ、わたしは4勝に留まったので、彼がタイトルを取りました」

「シェブロンにはあまり良い記憶はありません。マシンの開発計画を立てましたが、走行テストができたのはわずか30分。開発の予算がなかったのです。当時のローラはT400を除いて、非常に仕上がりが優れていました。バランスは完璧で、車重は重かったのにサーキットによってはF1よりも速く走れました。ワイドタイヤなので意図的にはドリフトはきないのですが、ダウンフォースが充分ではなく、高速で走行中にスライドするほどでした」 とレッドマンは話す。

F5000カテゴリーのマシン(ローラT400)
F5000カテゴリーのマシン(ローラT400)

30歳までシングルシーターのレースカーを運転する機会がなかったレッドマンにとって、F5000は厚遇だったのか、F1チームのシャドーからの誘いを断っている。一方で23歳のジョディー・シェクターにとっては、キャリアアップの踏み台だった。「当時はまだ若く、F5000は素晴らしく楽しいものでした。優勝したりクラッシュしたり、雑誌のスポーツ・イラストレイテッドにも特集されました」 

「初めはT101をドライブしましたが、ドリフトしっぱなしでした。タイヤのコンパウンドが硬く、滑りやすかったのです。ウォトキンズ・グレン・サーキットでそれを指摘しました。アメリカン人レーサーのボブ・レイジャーが彼のローラ製シャシーを貸してくれ、エンジンを載せ替えました。そのクルマで2秒近く速いタイムを出し、ポールポジションを取ったんです」と話すジョディー・シェクター。

「非常に貴重な機会だったと思います。みんなが見ている中で、ピットレーンを歩くのはなかなか気持ちがいいものです。その後、同じローラ・シャシーを入手しましたが、費用の都合で同じ性能は引き出せませんでした。シーズンでの優勝賞金すべてを投じる必要があるほどでした」

おすすめ記事