破壊されたプロトタイプ ベントレーMkV コーニッシュ(1) 神秘性を醸し出す曲線美

公開 : 2024.02.24 17:45

戦争で破壊されたベントレー・コーニッシュ・プロトタイプ 歯科医師が描き出した曲線美のボディ 精巧なリクリエーション・モデルを英国編集部がご紹介

不運にさらされたベントレー・コーニッシュ

失われたプロトタイプは、クルマ好きの想像力を駆り立てる存在だろう。斬新なアイデアがカタチになりながらも、結果的に作り手によって壊されることが少なくない。

現代に蘇ったベントレー・コーニッシュは、異なる不運にさらされた1台だったが、醸し出す神秘性を否定することは難しい。第二次大戦前に17台作られたベントレーMkVがベースで、平和が続いていれば1940年に発表されていたはず。

ベントレーMkV コーニッシュ・リクリエーション(1939年式の再現モデル)
ベントレーMkV コーニッシュ・リクリエーション(1939年式の再現モデル)

滑らかなボディは、軽量化へ配慮されていた。160km/h以上での巡航も難しくなかった。当時はベントレーを傘下に収めていた、ロールス・ロイスファントムIIIの後継になる可能性も秘めていた。

MkVは、ロールス・ロイスが立ち上げたばかりのシャシー部門による初のモデルで、裕福な層が好むオーナー・ドライバーズカーが目指された。ファントムIIIのように、お抱え運転手が走らせる大型サルーンの需要は減少していた。

トランスミッションには、2速から4速まで、変速時にギアの回転を合わせるシンクロを装備。ウイッシュボーンと柔らかなコイルスプリングで構成される、独立懸架式サスペンションが、フロントを支えた。

シリンダー数やシャシー長の違いでモデル展開を図るという、ベントレーとロールス・ロイスの合理化を体現したモデルでもあった。戦後には、MkVIやRタイプ、シルバーレイス、シルバードーンといったラインナップが形成されていった。

17台のMkVの内、7台が現存する。しかし、コーニッシュは市販に至らなかった。

パリのヴァンヴァーレン社がボディを成型

MkVのエンジンは、4257ccのオーバーヘッドバルブ直列6気筒。コーニッシュでは高圧縮化され、ハイリフトなカムが組まれ、最高出力172psへ軽くチューニングされた。2本出しのエグゾーストも特徴だった。

シャシー自体は、35台分が作られていた。ボディの架装されない18台分は廃棄処分になったが、1970年代まで、グレートブリテン島中部のクルーに構えた工場には、部品が保管されていたという。

ベントレーMkV コーニッシュ・リクリエーション(1939年式の再現モデル)
ベントレーMkV コーニッシュ・リクリエーション(1939年式の再現モデル)

コーニッシュの14-BV型シャシーは、薄いスチール材やマグネシウムを利用し軽量化。クロスレシオのトランスミッションには、オーバードライブが備わった。軽量なディスクホイールも、標準仕様の1つだった。

1939年2月にシャシーは完成。フランスで販売される、ロールス・ロイス用ボディの殆どを手掛けていたコーチビルダー、ヴァンヴァーレン社へ運ばれた。ピラーレスのスタイリッシュな造形や、特許を取得したボディのマウント方法が高く評価されていた。

スタイリングを担当したのは、パリの歯科医師だったジョルジュ・ポーラン氏。仕事の合間に、曲線美を描き出していた。

彼の作品として名高いのが、後にプジョーが特許を購入した、フォールディング・ハードトップ構造。ジュラルミン製ボディの流線型クーペ、エンビリコス・ベントレーも外すことはできないだろう。

エンビリコスは、公式に依頼された仕事ではなかったものの、ベントレーはジョルジュの仕事を高く評価。1940年代に、ブランドが進むべき方向性だと認知された。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ジョン・ブラッドショー

    John Bradshaw

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

ベントレーMkV コーニッシュの前後関係

前後関係をもっとみる

関連テーマ

おすすめ記事