自分の「首を絞めた」コダワリ品質 ランチア・アウレリア B10 ブリストル405(1) ピークは1950年代

公開 : 2024.04.06 17:45

強いコダワリで生み出された、ブリストル405とランチア・アウレリア B10 1950年代にピークを迎え、圧倒的な製造品質を誇った両社 英国編集部が2台を振り返る

圧倒的な製造品質を誇ったブリストルランチア

最近は耳にする機会がめっきり減った、ブリストルとランチア。ブランド力やモデル水準の高さでは、1950年代半ばにピークへ達していた。その後、下降線を描いたことは惜しまれる事実だ。

その頃、両ブランドはコダワリの4ドアサルーンを開発した。エンジンは2.0L前後の6気筒。最高出力や直線速度に依存しない、細部の洗練性や上質な走行フィーリングを求める、目が肥えた少数のユーザーへ訴求するために。

シルバーのブリストル405と、ブラックのランチア・アウレリア B10
シルバーのブリストル405と、ブラックのランチア・アウレリア B10

ブリストルとランチアの特徴といえたのが、圧倒的な製造品質。特に1950年代のランチアは、イタリア最高の自動車メーカーとして認識されていた。由緒正しき、自国の誇りといっても良かっただろう。

確かな伝統だけでなく、革新的な技術を意欲的に取り入れてきた姿勢も、一目置かれていた理由の1つ。多少の犠牲は、顧みなかったとすらいえる。

1953年に発売されたランチア・アッピアにも、スライディングピラー式という、旧式で特殊なサスペンションは採用されていた。しかし、1950年に発売されたアウレリアは、オールアルミ製のV6エンジンを搭載。これは、量産ユニットとしては世界初だった。

リアには、先進的なセミトレーリングアーム式サスペンションを採用。現在では一般的な、ラジアルタイヤを量産車として標準装備したのも、アウレリアが初めてだった。

トランスミッションは、リアデフと一体のトランスアクスル。リアブレーキは、ドライブシャフトの内側に実装される、インボード構造が取られていた。

飛行機の傍らで作られていた400

他方、航空機メーカーから派生したブリストル・カーズは、遥かに歴史が浅い。第二次大戦前のBMWの技術を、戦後賠償の一環として取得。航空機水準の製造技術を融合し、英国流に手を加えることで、経験は殆どなくても高水準の量産車を提供していた。

ブリストル初の市販車となったのが、1947年の400。ドイツの優れた設計をベースに、革新ではなく、改善へ力がおかれていた。上空で故障するわけにはいかない飛行機のように、品質検査にも高い規格が適用されていた。

シルバーのブリストル405と、ブラックのランチア・アウレリア B10
シルバーのブリストル405と、ブラックのランチア・アウレリア B10

親会社のブリストル・エアロプレーン社は、戦後の労働力維持のため、自動車産業への進出を決断。しかし、既存の自動車メーカーも量産体制を整える状況にあり、充分な雇用維持は難しかった。

トランスミッションにオーバードライブが追加され、106psの新型100Bエンジンを搭載したブリストル405が登場したのは、1954年。その頃まで、グレートブリテン島南西部の製造工場では、飛行機の機体やエンジンの傍らで、クルマが作られていた。

405は、ブリストルにとって唯一の4ドアサルーンとして開発。2.0Lエンジンを搭載した自社のラインナップでは、最高の内容が目指されていた。生産ラインは、ハンドビルドに近いものといえた。

ボディパネルは、厚さ約1.0mmのアルミニウム製。キャビンはアッシュ材の木製フレームで覆われ、ルーフパネルが載せられた。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ジョン・ブラッドショー

    John Bradshaw

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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