どこへでも向える自信 ランドローバー・シリーズ1 着想はジープ 1948年のゲームチェンジャー(4) 

公開 : 2023.05.06 07:06

戦後の開放的な雰囲気のなか、ゲームチェンジャーといえる傑作モデルが誕生した1948年。その最たる6台を、英国編集部がご紹介します。

ジープから着想を得たランドローバー

コカ・コーラやチョコレートだけでなく、数え切れないほどのジープをアメリカは第二次大戦時の欧州へ持ち込んだ。平和が訪れると、歓迎されない遺物としてジープを邪魔者扱いする人も少なくなかったが、復興の移動手段として役立てる人も多かった。

ローバーの技術者だったモーリス・ウィルクス氏にとって、ジープは農場で有用な道具になった。それから転じて、ランドローバーのアイデアが生まれた。

ランドローバー・シリーズ1 80インチ(1948〜1951年/欧州仕様)
ランドローバー・シリーズ1 80インチ(1948〜1951年/欧州仕様)

同社の経営責任者を務めていた、兄弟のスペンサー・ウィルクス氏との何気ない会話を発端にアイデアは温められ、堅牢な商用車としての方向性が決定。最初のプロトタイプは、1947年に作られている。

ホイールベースを80インチ(約2032mm)としたジープのシャシーに、48psのローバー10型エンジンを搭載。トランスミッションはローとハイの2レンジを備えた専用品が組まれ、簡素な形のボディには入手しやすいアルミニウムが用いられた。

堅牢なジープに着想を得たモデルではあったが、ランドローバー・プロジェクトでは独自に過酷な走行実験が繰り返された。48台のプロトタイプには、様々な改良や変更が加えられたという。その初期の1台は、英国自動車博物館に展示されている。

デザインスケッチは、生産初期には重要な製作資料として役立てられた。ローバー社の職人は、簡素なプレス機とハンマーでアルミのシートを叩き、ボディを作っていた。

世界中で必要とされた多目的なクルマ

ランドローバー・シリーズ1が発表されたのは、1948年4月のオランダ・アムステルダム・モーターショー。展示ブースに飾られたのは最初にラインオフした2台で、3台目はGWD 431のナンバーで登録され、数日後に工場を旅立っている。

半年後、スペイン・バルセロナで開かれた国際トレードフェアでは、不満のないオフロード性能を披露。イベント終了後はモーリスの兄弟、ジェフリー・ウィルクス氏がGWD 431のオーナーになった。その間に、右ハンドルへ変更を受けている。

ランドローバー・シリーズ1 80インチ(1948〜1951年/欧州仕様)
ランドローバー・シリーズ1 80インチ(1948〜1951年/欧州仕様)

1950年までに、ローバーの工場ではP3サルーンよりランドローバーの方が多く生産されるようになっていた。1951年に4万台へ達し、1952年には海外の工場でもライセンス生産がスタートしている。

戦後の暮らしを支えるべく生まれた多目的なクルマは、世界中で必要とされることが証明された。ランドローバーという、新しい自動車メーカーを生み出すことにもなった。

現在、GWD 431のランドローバー・シリーズ1を所有するのは、ティム・ダインズ氏。グレートブリテン島の南西部、デヴォン州をドライブしているときに発見したという。

「16歳の頃から、ホイールベースが80インチのランドローバーを所有したいと願ってきました。ドロゴ城の近くに住む農夫の倉庫に、それが眠っていたんです」

当時のオーナーと交渉を重ね、購入資金を借りたティムは、自宅のある南東部のケント州まで持ち帰ることに成功。生涯大切にすると誓う、ランドローバーのオーナーになった。

記事に関わった人々

  • 執筆

    チャーリー・カルダーウッド

    Charlie Calderwood

    英国編集部ライター
  • 撮影

    リュク・レーシー

    Luc Lacey

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

1948年のゲームチェンジャー シトロエン2CV、フェラーリ166からポルシェ356までの前後関係

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