息子が目撃したグッドウッド・リバイバル 純白のハンスゲン・スペシャル(2) 世界水準の厳しい現実

公開 : 2024.06.23 17:46

ジャガーCタイプが欲しかった、32歳でサーキットデビューしたウォルト 運転スキルを磨いたXK120の部品で自作 初戦から見事に優勝 純白のワンオフ・レーサーを英国編集部がご紹介

世界水準の厳しい現実へ直面したウォルト

1953年シーズンを、ウォルト・ハンスゲン氏は多忙に過ごした。複数のレースでハンスゲン・スペシャルは好成績を残し、9月19日のワトキンス・グレン・グランプリで、確実な評価を勝ち取ることになる。

前年の観客の死亡事故を受け、7.4kmへ短縮された市街地コースは、以前ほどの難易度ではなくなっていた。ハンスゲン・スペシャルは、序盤から3台のアラード・マシンをリード。ところが、残り3周で直列6気筒エンジンの異変を感じ取る。

ホワイトのハンスゲン・スペシャルと、ダークブルーのジャガーXK120
ホワイトのハンスゲン・スペシャルと、ダークブルーのジャガーXK120

ウォルトは燃料系を疑うが、原因へ気が取られているうちに、アラードがトップを奪取。最終ラップの22周目に不調ではないとわかり、5度も順位を入れ替えつつ、最終コーナーでトップを奪い返す。僅差で優勝を果たした。

彼がレースへ本格的に興味を抱いたのは、1950年。その3年後には、自らマシンを開発し優勝してしまうのだから、驚かずにはいられない。

1か月後には、アメリカ南東部のジョージア州で開かれた、FIA公認の国際スポーツカー・レースへ。だが、世界水準のマシンとドライバーが集結し、ウォルトは厳しい現実へ直面した。

ハンスゲン・スペシャルは、ストレートを250km/h前後で駆け抜ける、フェラーリ340 メキシコやカニンガムC-5Rへ太刀打ちできなかった。最高速度は206km/hで、ワークスのジャガーCタイプと比べても約30km/h遅かった。

ウォルトは諦めず、402kmを完走してクラス3位、総合10位へ入賞した。だが、より速いクルマへの情熱にも火が付いた。自宅を抵当に入れ、ついに彼はダークブルーのCタイプを手に入れたのだった。

レストアを経てグッドウッド・リバイバルへ

はかなく手放されたハンスゲン・スペシャルを引き継いだのは、レーサー仲間だったポール・ティミンズ氏。フェンダーをダークブルーに塗装し、1954年のレースを戦った。表彰台に登ることはあったものの、その中央に立つことはなかったようだ。

だがティミンズは、1955年3月に交通事故でこの世を去ってしまう。その後はジョージ・スターナー氏が11年間のオーナーになり、週末のドライブを楽しみ、JD.アイグルハート氏へ売却された。

ハンスゲン・スペシャル(1953年)
ハンスゲン・スペシャル(1953年)

アイグルハートは、ボディをブルーに塗装。ヒルクライム・レースへ挑む時以外は、ワトキンス・グレン博物館の展示車両として貸し出された。

彼から1983年にクルマを買い取ったのが、カーディーラーを営むボブ・ミルスタイン氏。ウォルトの活躍を知っており、保存したいと考えたらしい。

ミルスタインも根っからのレーサーで、純白に塗り直されたハンスゲン・スペシャルで150以上のイベントへ参戦。すべて無事故で切り抜け、31年間状態は維持された。

ジャガーの専門家、テリー・ラーソン氏の仲介を受け、現オーナーとなったのが、スイス在住のクリスチャン・ジェニー氏。ハンスゲン・スペシャルへ魅了され、クラシックカーイベント、グッドウッド・リバイバルへの出場が計画された。

記事に関わった人々

  • 執筆

    サイモン・ハックナル

    Simon Hucknall

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

純白のハンスゲン・スペシャルの前後関係

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