雲の上の存在へ上昇中 オースチン・ヒーレー100 プロトタイプ 英国スポーツの雛形(2)

公開 : 2023.09.24 17:46

英国スポーツの雛形といえるオースチン・ヒーレー100 量産化前に作られた19台のプロトタイプ 現存する1台を英国編集部がご紹介

レーシングドライバーが駆りラリーで優勝

プロトタイプとして当初の役目を終えた最初期のオースチン・ヒーレー100、車体番号AHX16は、英国人レーシングドライバー、ベティ・ヘイグ氏が購入。1953年7月に名義変更を終え、8月のグレート・オークラム・ヒルクライムレースへ出場している。

レースではオーバーヒート気味で、ボンネットを外して走行。カーブが連続する約400mのコースを、27.49秒で走破した。9月にはブライトン・スピード・トライアルへ参戦。1953年10月時点での走行距離は、ヘイグが残したメモによると約4000kmだった。

オースチン・ヒーレー100 プロトタイプ(1953年)
オースチン・ヒーレー100 プロトタイプ(1953年)

その後ヒーレーの本社へ戻され、エンジンの圧縮比を8:1へ向上するなどの改良を実施。1954年1月に、ル・マン仕様として仕上がっている。

1954年3月には、パリ=サン・ラファエル・フェミニンラリーへ参戦。パリを出発し、ランス、マルセイユ、トリノ、サンレモ、モンテカルロを経由し、コートダジュールを目指すルートを完走しただけでなく、2.0L以上のクラスで優勝を果たした。

1954年4月に、ヘイグはAHX16を売却。2014年までに12人のオーナーを経て、クリス・ディクソン氏が我がものとした。ボディは3度も色が変えられ、1962年には375ポンドで売りに出ていたらしい。しっかり走り込まれ、見た目は良くなかったという。

1989年には部分的にレストアを受け、ダークグリーンに塗られたようだが、ボディパネルにはギャップが目立っていた。何層もの塗装を剥がすと、沢山のパテが盛られているのも判明した。

凛々しいヒーレーアイス・ブルーのボディ

完璧な状態を目指したディクソンは、英国のビル・ロウルズ・クラシック・カーズ社へレストアを依頼。ケープ・インターナショナル社やカナダのブレア・ハーバー氏の協力を得ながら、ヘイグがレースを戦っていた頃の仕様が細部まで復元されている。

ボディの状態は褒めにくかったものの、シャシーには殆どサビがなかった。ボディシェル自体はオリジナルを利用できたが、前後のフェンダーは新品へ置換。インテリアも全面的にリフレッシュされている。

オースチン・ヒーレー100 プロトタイプ(1953年)
オースチン・ヒーレー100 プロトタイプ(1953年)

2.7L 4気筒プッシュロッド・エンジンは、スチール製クランクとアルミ製サンプでリビルド済み。ヘイグがル・マン仕様にアップグレードした内容に合わせ、カムシャフトは専用品が組まれた。キャブレーターを覆うエアボックスも、綺麗に再現されている。

トランスミッションとオーバードライブはオーバーホール。ラジエターはオリジナルのシェルを残しつつ、コアが3列から4列へ増やされ、オーバーヒートに備えている。

サスペンションとリアアクスル、ブレーキも再構築。48スポークのワイヤーホイールは、新品が手配された。見事なレストアを経て、ヒーレーアイス・ブルーのボディが凛々しい。

はやる気持ちを抑えつつ、ドライバーズシートへ。筆者が過去に体験したヒーレー100とは、印象が細部で異なることがわかる。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ポール・ハーディマン

    Paul Hardiman

    英国編集部ライター
  • 撮影

    トニー・ベイカー

    Tony Baker

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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