19台のみのハンドビルド オースチン・ヒーレー100 プロトタイプ 英国スポーツの雛形(1)

公開 : 2023.09.24 17:45

英国スポーツの雛形といえるオースチン・ヒーレー100 量産化前に作られた19台のプロトタイプ 現存する1台を英国編集部がご紹介

英国スポーツの雛形といえる象徴的なカタチ

1952年のロンドン・モーターショーで、ドナルド・ヒーレー氏は、オースチン社のレナード・ロード氏へ新しいスポーツカーを提案。これをきっかけに誕生したオースチン・ヒーレー100は、成功といえる数が量産された。

美しく流麗なロードスターを描き出したのは、カーデザイナーのジェリー・コーカー氏。ブリティッシュ・スポーツの雛形ともいえる、象徴的なフォルムが完成していた。北米市場を中心に、世界各国で支持を集めることになった。

オースチン・ヒーレー100 プロトタイプ(1953年)
オースチン・ヒーレー100 プロトタイプ(1953年)

ただし、小さな問題があった。性能をブラッシュアップし、メディアへの試乗機会などを提供するため、本格的な生産前に一定数の試作車が必要だった。最初に作られた1台のヒーレー100は、少数の有能な技術者によって設計され、手作りされていた。

ドナルドと息子のジェフリー・ヒーレー氏、開発部門を率いるロジャー・メナデュー氏、技術者のバリー・ビルビー氏、ワークスチームのハリー・ブランディッシュ氏という精鋭が、小さなワークショップには揃っていた。だが、量産できる環境ではなかった。

最終的には1953年3月に生産工場がグレートブリテン島の中部、バーミンガム・ロングブリッジに構えられるが、最初のプロトタイプは手作業で生み出す必要があった。デザインや設計へ改良を加え、量産モデルとして完成度を高めながら。

19台が作られた100のプロトタイプ

そこで、バーミンガムの南東、ウォリックに位置したドナルド氏のワークショップで、50台のハンドメイド・モデルを作る計画が立てられた。ところが、実際にラインオフしたのは19台に過ぎない。

NUE 854のナンバーで登録された、今回のヒーレー100もその1台。職人の手で成形されたアルミニウム製ボディをまとい、15番目に完成したクルマだ。

オースチン・ヒーレー100 プロトタイプ(1953年)
オースチン・ヒーレー100 プロトタイプ(1953年)

1940年代から、ヒーレー親子は自ら製作したマシンでイタリアの公道レース、ミッレ・ミリアへ参戦していた。彼らの誇りが、ゴールドに輝くプレートに刻まれている。

モータースポーツでの経験が活かされた堅牢なシャシーに、トルクフルなエンジンと優れたブレーキを融合。バランスに長けた操縦性を実現させていた。ドナルドたちは、それ以下では納得しなかったに違いない。

量産仕様のヒーレー100と今回ご登場願ったプロトタイプでは、観察すると細部で違っていることがわかる。だが、1952年のモーターショーへ展示されたコンセプトカーから改良も受けており、ヘッドライトの位置は既に高い。

最も大きな違いは、ボンネットやトランクリッドだけでなく、すべてのボディパネルがアルミ製なこと。パネルを結合するカシメ部分も機械プレスではなく、職人が手仕事で成形したため異なる。

ボディ後端には、オースチン・オブ・イングランドのロゴが飾られる。ロングブリッジでの量産が始まるまで、この表記が用いられていた。フロントグリルは、手作業で接合されている。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ポール・ハーディマン

    Paul Hardiman

    英国編集部ライター
  • 撮影

    トニー・ベイカー

    Tony Baker

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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