ラリーとレースの二刀流 フレイザー・ナッシュ・ミッレミリア モダンな運転体験 前編

公開 : 2023.09.02 17:45

多能な高性能モデルとして仕上げられた、フレイザー・ナッシュ・ミッレミリア。現存する貴重な1台を、英国編集部がご紹介します。

細部へのコダワリが違うフレイザー・ナッシュ

昔はもっとシンプルだった。こんな意見に共感される読者は、少なくないだろう。今回ご紹介するフレイザー・ナッシュ・ミッレミリアは、それを実感させる好例だ。

トヨタGRヤリスとアストン マーティンヴァンテージ GTEを、足して2で割ったようなクルマは存在しない。しかし1954年には、それに近いモデルを選ぶことができた。

フレイザー・ナッシュ・ミッレミリア(1952年式/英国仕様)
フレイザー・ナッシュ・ミッレミリア(1952年式/英国仕様)

多能な1台で英国RAC(ロイヤル・オートモビル・クラブラリーを勝利し、数週間後にオールトンパーク・サーキットのレースでも勝利を狙うことが可能だった。ジャガーXK120やトライアンフTR2、ヒーレー100などは、そんな活躍を披露してきた。

1950年代初頭、第二次大戦を経て、英国の経済もひっ迫した状況にあった。一般的なドライバーが特別なマシンを2台購入することは難しくても、XK120 ロードスターなら1500ポンドでガレージへ迎えることができた。TR2なら、900ポンドだった。

一方、フレイザー・ナッシュ・ミッレミリアは3307ポンドもした。ジャガーより2倍優れていたのかという疑問はあるが、吊るしのスーツと、サヴィル・ロウ通りに面したテイラーで仕立てたスーツを比べるようなもの。細部へのコダワリが違う。

ミッレミリアを観察すれば、フレイザー・ナッシュを創業者から受け継いだアルディントン兄弟によって、細部まで入念に考え抜かれていることが見えてくる。実際、他のモデルにも同じくらい情熱が注がれていた。

サーキットまで自走し、レースを完走する

パートナーを助手席に乗せたロングドライブも、白熱したラリーも、サーキットでのレースも、1台で楽しみたいというワガママな紳士へミッレミリアは作られている。職人による手仕事で。

結果的に魅力的なクルマが生まれたとしても、利益を得るのに充分な台数を生産するには適さない手法といえた。第二次大戦後、同社のワークショップからラインオフした完成車は85台のみ。そのうちミッレミリアは、11台しか作られていない。

フレイザー・ナッシュ・ミッレミリア(1952年式/英国仕様)
フレイザー・ナッシュ・ミッレミリア(1952年式/英国仕様)

フレイザー・ナッシュが重んじた哲学は、サーキットまで自走し、レースを完走し、自宅まで帰ることができるスポーツカーであること。納車後のクルマへ、アップグレードが施されることも珍しくなかった。むしろ、積極的に受け入れたという。

遡ること1930年代初頭、アルディントン兄弟の1人、若きハロルドはブルックランズ・サーキットでモータースポーツの魅力へハマり、アルプス山脈などで開かれた林間を走るトライアル・レースへも積極的に参戦。複数の勝利を重ねた。

その後、フレイザー・ナッシュはBMWの一部を構成したアイゼナハ社の英国ディーラーになり、フレイザー・ナッシュBMWというブランドを設立。第二次大戦が勃発するまで、315や319、328といったモデルが提供された。

再び平和が訪れると、BMW 328に載る直列6気筒エンジンの可能性へ注目。事業拡大のカギになると考えた。しかし、計画の実現には優れた技術者と生産者が必要だった。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ジュリアン・バルメ

    Julian Balme

    英国編集部ライター
  • 撮影

    リュク・レーシー

    Luc Lacey

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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