【偉大なる血脈】ミハエル・シューマッハの息子、ミック・シューマッハの現在地 目指すは最高の舞台 後編

公開 : 2020.01.19 18:50

番外編1:ミハエル・シューマッハの伝説 その1

7度のF1世界チャンピオンに91度の勝利、そして68度のポールポジション。

だが、こうした記録もF1におけるミハエル・シューマッハの偉大さを示す一端でしかない。

シューマッハはレースを愛していたが、サーキットでは冷酷無比になることも出来た。
シューマッハはレースを愛していたが、サーキットでは冷酷無比になることも出来た。

ルイス・ハミルトンが君臨する現在でも、彼は数多くの点で史上最高のドライバーであり続けている。

さらに、こうした記録だけでなく、シューマッハは逆境のなかでもレースシーンを沸かせてきた。

1996年、ヘビーウェットのコンディションで行われたスペインGPが彼の最高のレースだと多くが考えている。

スタートを失敗したシューマッハだったが、その後は1周ごとに2秒から3秒も他のドライバーを上回るラップタイムを軽々と記録し、大逆転優勝を飾っている。

1995年のベルギーGPも忘れることができない。

予選16位からスタートしたシューマッハは、タイトル争いのライバルだったデイモン・ヒルを2位に抑え込んで勝利している。

この勝利は、ウェットコンディションでスリックタイヤを履いたままという、彼以外には出来ない離れ業をやってのけた末でのものだった。

さらに、1994年のスペインGPでは、レース序盤で5速ギアを失ったまま、2位に食い込む健闘を見せている。

1998年のハンガリーではロス・ブラウンが3ストップ作戦に変更したことで、シューマッハはこのレースをひとつのミスも許されない状況下、予選並みのペースで戦う必要に迫られたが、彼は見事に勝利を収めている。

シューマッハにも欠点はあった。なかでも最大のものが勝利のためには手段を択ばないそのドライビングスタイルだろう。

番外編2:ミハエル・シューマッハの伝説 その2

それが如実に表れたのが、タイトル争いで2位につけていたデイモン・ヒルをリタイアに追い込んだ1994年のアデレードGPであり、1997年のへレスではこの年のワールドタイトル獲得に向け順位を上げるため、シューマッハをパスしようとしたジャック・ヴィルヌーブを、(失敗したものの)自らのマシンで妨害しようとしている。

当然ながらミハエルの成し遂げた記録や名声、そして財産はその息子へと受け継がれているが、それはミックにとって非常な重荷ともなっている。

1996年のスペインGPがミハエル最高のレースだ。
1996年のスペインGPがミハエル最高のレースだ。

少なくとも現時点では、ミックにとってもっとも現実的な目標は、ミハエルがタイトルとその名声を築き上げたフェラーリチームよりも、多くのファンが忘れたがっている3シーズンを過ごしたメルセデスからのF1デビューだろう。

なかには、この3年間のミハエルはほとんど何もしていないというものもいた。

だが、いま振り返ってみれば、自らのキャリア終盤で、後にF1ワールドチャンピオンのタイトルを獲得するニコ・ロズベルグを導くという印象深い役割を果たしている。

それでも、最後の3シーズンは成熟したミハエル・シューマッハがF1という最高の舞台にふたたび戻ってきたという事実こそが重要だった。

彼を知る人によれば、シューマッハはF1から離れていた間もそのスピードへの欲求を失うことはなく、だからこそバイクレースに参戦して転倒負傷するという経験までしたのだと話している。

その素晴らしい成功にもかかわらず、彼にとっての名誉はF1ドライバーになれたことだとシューマッハは話している。まさに彼の人間味を表すエピソードだと言えるだろう。

シューマッハ家だけでなくヒルやヴィルヌーブなど、偉大な父のもとに生まれ、それを越えられない「息子たち」の例は枚挙に暇がない。

ミック・シューマッハが父を目標にするのであれば、F1デビューするだけでもいまは十分な成功と言えるだろう。

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