「パリダカ」は完走できれば御の字 メルセデス・ベンツ280GE レプリカ(1) 悲願の優勝へ挑む

公開 : 2024.02.03 17:45

1983年のパリダカで優勝を掴んだ、ゲレンデヴァーゲン ツインカム直列6気筒は223psへ上昇 空力特性を高めたボディ 英国編集部がレプリカをご紹介

完走できれば御の字のパリ・ダカール・ラリー

日本では「パリダカ」として知られる、パリ・ダカール・ラリーは過酷を極める。完走できれば御の字。マシンの故障だけでなく、精神的な不調でリタイアするチームもある。40年ほど前は、犯罪集団からの襲撃も珍しくなかった。

それでも、フランス・パリからアフリカ大陸を目指し、サハラ砂漠を横断してセネガルを目指す大冒険に、多くの人が惹きつけられてきた。バイクやクルマ、大型トラックなど、独自のマシンを仕立てて。

メルセデス・ベンツ280GE 1983年パリ・ダカール・ラリー仕様レプリカ(1982年式/欧州仕様)
メルセデス・ベンツ280GE 1983年パリ・ダカール・ラリー仕様レプリカ(1982年式/欧州仕様)

このパリダカを考案したのが、フランス人実業家のティエリー・サビーヌ氏。彼は、世界ラリー選手権だけでなく、ル・マン24時間レースにも出場するなど、10年以上のキャリアを積んだレーシングドライバーだった。

荒野でのモータースポーツへ魅了されたキッカケが、1977年に参戦した「ラリー・コート」。フランス南部のコートダジュールからアフリカ西部のコートジボワールまでをバイクで走るイベントで、サビーヌは3日間も砂漠の中で孤立した。

無事に生還した彼は、独自のラリーを企画する。それが、1978年に初開催されたパリ・ダカール・ラリー。その頃は「オアシス・ラリー」という名称で、記念すべき第1回は彼が主催者となり、ヘリコプターから競技車両を見守った。

参加車両は、合計170台。バイクとカー部門に別れたマシンが、フランスの海岸線を抜け、アルジェリア、ニジェール、オートボルタ(現ブルキナファソ)を経由し、セネガルを目指した。

四輪駆動に乗ると決めたジャッキー・イクス

冒険心を持つ人は多く、徐々にパリダカの認知度は上昇。エントリー・クラスだけでも参加車両は216台へ増え、ルートにはチャレンジングなセクションが追加されていった。1983年には、サハラ砂漠中央の危険なテネレ地域もコースへ含まれた。

そんな難関ルートへ挑んだのが、1982年に5位完走を果たした、メルセデス・ベンツ・フランス。マシンはゲレンデヴァーゲンで、ドライバーがジャッキー・イクス氏、コドライバーがクロード・ブラッスール氏というペアだった。

メルセデス・ベンツ280GE 1983年パリ・ダカール・ラリー仕様レプリカ(1982年式/欧州仕様)
メルセデス・ベンツ280GE 1983年パリ・ダカール・ラリー仕様レプリカ(1982年式/欧州仕様)

イクスはF1レースで25回も表彰台へ登り、ル・マン24時間レースでは4度も優勝していた。だが、サーキットで成功を掴んだ彼もまた、オフロードへ魅了されたらしい。

パリダカへの初参戦は1981年で、ドライブしたのはシトロエンCX 2400。前輪駆動クラスでの優勝を狙ったものの、エンジントラブルでリタイア。その年は、ランドローバーレンジローバーが優勝した。

1982年は四輪駆動車に乗ると決めた彼へ用意されたのが、メルセデス・ベンツ280GE。メルセデス・ベンツ・フランスが、ドイツのファクトリー・チームのサポートを受けて作ったマシンで、耐久性と動力性能の向上が図られていた。

アンダーボディには、アルミニウム製スキッドプレートが張られ、シャシーやドライブトレインを保護。この装備で増えた車重は、軽量なグラスファイバー製フェンダーとボンネット、ポリカーボネイト製ウインドウで相殺された。

記事に関わった人々

  • 執筆

    アーロン・マッケイ

    Aaron McKay

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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