米製4.0L直8エンジンに英製ボディ レイルトン・ロードスター 息子が好んだブルー 後編

公開 : 2022.11.13 07:06

アメリカ製のシャシーに、独自のコーチビルド・ボディを載せたレイルトン。英国編集部が貴重なロードスターをご紹介します。

亡き息子の指示通り完成した2シーター

1938年9月、第二次大戦に向けて欧州の雲行きが怪しくなるなか、リチャード・シャトルワース氏は英国空軍ボランティア予備隊に入隊。飛行訓練が始まると、レイルトンのボディ製作は保留にされた。

ところが彼は、1940年8月の夜間飛行テストで命を落としてしまう。母のドロシーは息子の死に衝撃を受け、気持ちを整理するべく赤十字へ参加。自宅を病院として開放し、救命に貢献した。さらに記念基金を設立したほか、大学や航空機博物館も創設した。

レイルトン・ロードスター(1937年製シャシー/英国仕様)
レイルトン・ロードスター(1937年製シャシー/英国仕様)

さらに、シャシー番号741240のレイルトンを完成させることも決めた。1930年代には彼女も同社のクルマを運転しており、このブランドには特別な思い入れがあったようだ。

1950年、裸のハドソン・モーター社製シャシーはケタリング・ルーツ社へ輸送された。亡きリチャードが記した、2シーターボディの指示書と一緒に。最終的にJNM 700のナンバーで登録され、16インチ・ホイールと息子が好んだブルーの塗装で仕上げられた。

真新しい2シーターのロードスターが届けられると、70歳を過ぎていたドロシーは運転して楽しんだという。その2年後に売却され、レイルトン・オーナーズクラブのジョン・ダイソン氏とリチャード・ヒューズ氏が買い取っている。

ところが、クルマの調子は良好とはいえなかった。「ヒューズが運転して持ち帰ろうとしたのですが、ロンドンを横断する前にオーバーヒート。クルマを置いて戻らざるを得なかったようです」。と、ダイソンが振り返る。

当時の英国車より内容で優れたテラプレーン

「フロントアクスルも駄目でした。1937年製のハドソン・フレームでしたが、トルクアームがなかったんです。リチャードさんは農耕に使っていたとも聞いています。その影響か、シャシーには亀裂も。簡易的な補修はされていましたが」

ダイソンが最初にレイルトンを購入したのは1956年。カーボディーズ社のツアラーボディを載せた、警察車両だったクルマを皮切りに、これまで6台のレイルトンを所有してきた。

レイルトン・ロードスター(1937年製シャシー/英国仕様)
レイルトン・ロードスター(1937年製シャシー/英国仕様)

「シングル・ダウンドラフト・キャブレターに、形状の良くない吸排気のマニフォールドが組まれていました。それで良く走ったんですから、驚くべき事実です」

スポーツカーとして設計されたわけではありません。それでも当時の英国車と比べて、内容で優れるテラプレーンをハドソン・モーター社は量産していました」。と話すダイソンのお気に入りは、ラナラ社によるボディを載せたサルーンだという。

「ツアラーとは異なり荷物をしっかり積めるので、休日のツーリングに丁度いいんです。乗り心地は快適で、調子良く走りますよ」

1970年代に入ると、2人はクリスティーズ・オークションへ出展。それは、ドロシーの姪に当たるドイツのシャルロット・フォン・クロイ王女の目に留まった。

彼女が暮らすドイツ北部ニーダーザクセン州の道を、ホワイトに塗り替えられたレイルトンのロードスターが走る姿は地元の名物になった。最終的には叔父へ敬意を評してブルーに塗り替え、1975年にシャトルワース・コレクションへ寄贈されている。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ミック・ウォルシュ

    Mick Walsh

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ウィル・ウイリアムズ

    Will Williams

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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