GT40の勇姿を重ねて デ・トマソ・パンテーラ アメリカンV8の清楚なプレL 前編

公開 : 2023.03.19 07:05

イタリアとアメリカの合作で誕生した、ミドシップ・グランドツアラーのパンテーラ。清楚な最初期型を英国編集部がご紹介します。

特別なスポーツカーを切望したフォード

頭を屈めて、ステアリングホイールの隙間からタコメーターを確認する。シートの直後で、V型8気筒エンジンが激しく唸りを上げる。鋭く針が回り、回転数の上昇を伝える。路面は軽く濡れているから、解き放つパワーの加減が欠かせない。

刺激的で、髪の毛が逆立つようだ。デ・トマソ・パンテーラが、積極的に飛ばして欲しいとドライバーへ訴えかけてくる。レッドゾーンまで気張れば、ル・マン24時間レースを走るフォードGT40とイメージが重なる、というのは大げさだが。

デ・トマソ・パンテーラ(プレL/1971〜1972年/欧州仕様)
デ・トマソ・パンテーラ(プレL/1971〜1972年/欧州仕様)

クラッチペダルを踏み込むと、一旦加速力が鈍る。ステンレス製のシフトゲートへ沿うように、シフトレバーを動かし次のギアを選ぶ。左足を緩めると、再び大パワーがリアタイヤへ送られ、フロントノーズが持ち上がる。

パンテーラが軽くなったように感じられ、コーナー手前で確実な減速が必要だと認識する。フォードGT40の開発中に命を落とした英国人レーシングドライバー、ケン・マイルズ氏のことが頭をよぎった。

1960年代後半、フォードはブランドを象徴する特別なモデルを切望していた。シボレーが擁するコルベットのように。ル・マンで華々しい成績を残した、GT40の成功を展開できると考えた。

フォードが当初考えたのは、フェラーリの買収。「フェラーリ・フォード」のチーム名でモータースポーツを戦い、そのアイデンティティを継ぐラテン気質の公道用モデルをラインナップすることを狙った。しかし、その目論見は叶わなかった。

フォードとシェルビー、デ・トマソの密な関係性

マーケティング上でのGT40の価値は間違いないものだったが、公道用モデルとして量産することは現実的ではなかった。同時に、フォードの上層部はイタリアン・エキゾチックに対する夢を諦められなかった。

デ・トマソとの関係は、パンテーラ以前から築かれていた。アルゼンチン出身のアレハンドロ・デ・トマソ氏が、同社初の公道用モデル、デ・トマソ・ヴァレルンガへフォード・コルチナ用の4気筒エンジンを搭載したいと考えたのは、1963年だった。

デ・トマソ・パンテーラ(プレL/1971〜1972年/欧州仕様)
デ・トマソ・パンテーラ(プレL/1971〜1972年/欧州仕様)

続いて1966年に発表された2番目の公道用モデル、デ・トマソ・マングスタには、フォード製のパワフルなV8エンジンが載った。シャシーは、シェルビー・アメリカンに在籍していた技術者、ピーター・ブロック氏が設計を担った。

その頃には、フォードとシェルビー、デ・トマソという3社の関係性は密なものに。特にフォードの上層部にいたリー・アイアコッカ氏は、イタリアン・ブランドとの強固な協力関係の構築に熱心だった。

そんな折、フォードがデ・トマソへ求めたものが、自社のディーラーで販売できる手頃なエキゾチック・モデル。高価で完璧とはいえなかったマングスタほど、特別である必要はなかった。

マングスタのスペースフレーム構造ではなく、シンプルなスチール製モノコックシャシーをベースにした、ミドシップ・モデルの提案が託された。要求の厳しいアメリカ人ドライバーに応えられる、快適性を備える必要もあった。

記事に関わった人々

  • 執筆

    チャーリー・カルダーウッド

    Charlie Calderwood

    英国編集部ライター
  • 撮影

    リュク・レーシー

    Luc Lacey

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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