クレア・ウイリアムズ・インタビュー ー F1の技術をロードカーに展開

公開 : 2014.11.01 22:40  更新 : 2017.06.01 02:11

  • クレア・ウイリアムズ

チーム代表代理を務めるクレア・ウイリアムズに、ウイリアムズF1チームの復活における成功の理由を伺うために社屋を訪ねた際、いきなり創設者のフランク・ウイリアムズに出くわしたのには正直驚いた。

受付の方を待っていた時、われわれの後ろからあの有名な車椅子にのった御大が、リフトに乗って上階のオフィスに行こうとしていたのだ。

同僚のハレットと私は、以前彼にお会いしたことがあったのだが、鋭い眼光と直接的な質問になす術がなかったことを今でもよく覚えている。彼の威厳は例外的と言っていい。あまりにも有名すぎる彼を目の前に、われわれは今回もまた、たじろいてしまったのだった。

ちらりとこちらを見て、インタビューに来てくれたのか、と言う表情をした後に、礼儀正しく迎え入れてくれた。すべての所作はキビキビとしており、その直後にはこれまた洗練された所作のアシスタントとともにサッと姿を消したのだった。

後に私が質問しようとしていた ’2012年に経営陣を去って以降、フランク・ウイリアムズの現在の具体的な役割’ について、彼は言葉を一切用いずに答えてくれたのである。

トップを退いた今もなお、ウイリアムズの掲げるスタンダードを牽引しているし、情熱を保ち続けているのだ。彼がそこにいるだけで空気がピリリと張り詰める。フランク・ウイリアムズには計り知れない存在感と永続的なパワーがそなわっているのである。

私を含む二人の記者とカメラマンも、後から上階へと上がったあと、長い廊下を進み、真っ白なミーティングルームへと案内された。そこにある長方形のテーブルに座って、フランク・ウイリアムズの娘であるクレア・ウイリアムズを待った。

待つこともなく彼女はグループのCEOであるマイク・オドリスコルとともに姿を現した。マイク・オドリスコルに関しては、彼がジャガーで奔走していたころからよく知っており、今回F1チームと新しいウイリアムズ・アドバンスト・エンジニアリング社を含むウイリアムズ・グループを率いるためにCEOに選ばれたのだ。

丁寧に挨拶を交わした時、私はわずかに、これから始まるインタビューに対して、彼女が疲れのようなものを感じていることに気がついた。新聞社が彼女に詰問してから18ヶ月、またもや ’F1チームを指揮する女性’ と言う点に重きをおいた質問されるのではないかと身構えているようだったからだ。少なくともわれわれは、答えようのない質問はしないようにしようと、あらかじめ決めた。

彼女は3人兄弟の1人娘として、レースと密接に関わりあっていた影響力のある両親のもとで育った。これだけでも稀な話なのに、1986年には、壮絶な体験をしているのである。父であるフランクの事故だ。

当時10歳だったクレアは、ハンガーフォードの近くのウィルトシャーの自宅で暮らしていた、ごく普通の家政婦と、素晴らしい母であるバージニア・ウイリアムズとがつくり上げた、強く、ストイックな家庭の雰囲気のことを今でも鮮明に覚えているのだそうだ。

”奇跡のようなものだったのです” とクレア。成長してF1チームに近づき、学校が長期休暇になる度に、そこで働いていたことを振り返る。実は彼女、ウイリアムズで正式に働くことは絶対にない、と小さいころから言い聞かされていたのである。”これに関して疑問に感じたことはなかったし、そういうものなのだと考えていました” と言う。”どちらにしても私自身がやりたいことをしたかったのです”

高校卒業後 (”成績は常に平均的でした” ということだ)、平凡な人々が選ぶと言われていた政治学を、興味があるという理由でニューカッスル大学で学んだ。そして1999年の卒業後、3年間シルバーストンのプレスとして働き、その後ウイリアムズに就職した。

ここまで聞くと、F1チームを成功へと導いたリーダーらしからぬ、華々しさに欠けるストーリーのようだが、この後の20年間こそが、彼女の照準を徐々に具体的なものにしていったのだ。時は2003年、BMWと提携したシーズン(4回のタイトル)は、徐々にそれまで続いた勢いが衰えつつあった時期だった。但し、そこに救いのようなものは一つとしてなかったと彼女は振り返る。

”チームが不振だった時、とてつもなく苛立ちが募りました。しかし当時の私には何もすることができなかったのです。ただただ周囲の心ない批判に胸を痛めるだけでした”

 

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