ランチア・ストラトスに課せられた至上命題 それは「ラリーで勝つこと」だけだった

公開 : 2017.05.06 12:00

スーパーカー・ブームの時に、その異様な短く低いスタイリングに魅せられた人も多いことでしょう。しかし、ストラトスはスーパーカーであることを目的に造られたクルマではありませんでした。目的はただ一つ。ラリーで勝つことでした。

レースのために生まれた「スーパーカー」

乗るたびに、なぜ自分がこのクルマと恋に落ちたのかを思い出させてくれるようなクルマ。理性的であるよりは本能的なストラトスは、世界で最も過酷なラリーを制覇したランチアのエキゾチックなシンボルであり、スーパーカーのルックスとレースを目的とする自動車工学の結晶という魅力的なハイブリッドだ。

ミニが1960年代、そしてアウディ・クワトロが1980年代におけるスポーツ・シーンの象徴であったように、ストラトスは、1970年代を通して、変化の速いスポーツ・シーンを定義づけた。ランチア・ストラトスは、発売後40年以上を経てなお、われわれのモヤモヤを吹き飛ばしてくる最も爽快な特効薬だ。

ただそこにあるだけで、カリスマを漂わせているクルマ。そのスタイリングは、ランチアが多額の借金を抱え、間もなくフィアットによって救済されたものの、何か画期的なクルマを必要としていた時期にまで起源をさかのぼる。

ベルトーネが1970年のトリノ・モーターショーで発表したクルマ、すなわちフルヴィアのエンジンを搭載し、極端なフォルムのコンセプトカーであるゼロが、まさにそうしたクルマであった。後にヌッチオ自身がゼロをランチアまで運転し、そこで、コンペティション・マネージャーだったチェーザレ・フィオリオが尽力し、ゼロをベースにして当初の予想を大幅に超えるラリーの新兵器に改造する承認を取付けた。

手頃な速度域では小ぶりのランチアのハンドリングには余裕があるものの、限界間近では手一杯だ。

スポーツカーの新しい概念

コンセプトを担当したマルチェロ・ガンディーニは、1971年初め、これを、より実用的なプロトタイプに変身させる作業に取り掛かった。

その年の後半、トリノ・モーターショーで発表した頃には、材質は決まっていなかったものの、ストラトスの独特なフォルムが確定していた。プロトタイプがアルミ製だったのに対し、「量産」車にはFRPが採用された。フィオリオは、プロトタイプを次のように形容した。「スポーツカーの新しい概念」。

ハッチ式のドアなどがなくなり、未来的であったゼロと比べれば若干おとなしくなっている可能性があるものの、依然として素晴らしいフォルムであり、この時代の最も特徴的な「くさび形」のクルマのひとつであった。

側面から眺めると、フロント・パネルのラインから大きな湾曲したフロント・ガラスまで、角度の変化はほとんど見られない。大きなホイールアーチが、その流れを強調し、ストラトスが過激なクルマであることがすぐに理解できる。幅が広いのに、極めて短く、大きく絞り込まれた下半分。腰の高さでは広いものの、中央に寄ったルーフラインの周囲では狭い。

また、ストラトスは、最初から競技車両として設計されていることが一目でわかるクルマだ。フロントとリアのクラムシェル開閉式ボンネットを開けることで、中央のスティール・シャシーへ容易にアクセスでき、機械部品を格納したフロントとリアのサブ構造が簡単に露出する設計だ。これは、サービス・クルーがラリー・ステージの合間に修理作業を迅速に行うのに欠かせない仕組みであった。最初からロードカーを念頭に置いたデザインにありがちな妥協がほとんど見られない。

途方もなくコンパクトなくさび形のフォルム。ミシュランXWXタイヤを履いた正規の14インチ・カンパニョーロ・ホイールに注目したい。

まずはプロトタイプとしてWRCに出場

ジャンパオロ・ダラーラとマイク・パークスがシャシーの設計を手伝い、1972年を通して開発が迅速に続けられた。例えば、悪路での耐久性と使いやすさを向上させるため、リア・サスペンションをフロント・エンドで使われているのと同じダブル・ウィッシュボーンからマクファーソン・ストラットに変更した。

そうしてクルマの改良が迅速に進んだため、グループ4のホモロゲーションには適合していなかったものの、一部のイベントでプロトタイプとして出走することが可能になった。そこで、72年のツール・ド・コルスでデビューを飾る。だが、残念なことにサスペンションが故障したため、サンドロ・ムナーリとマリオ・マヌッチはリタイアを余儀なくされた。

おすすめ記事

 
最新試乗記