上品な専用ボディの2ドアクーペ オペル・マンタ A フォード・カプリに対抗 前編

公開 : 2023.01.01 07:05

1970年代、手頃な価格の2ドアクーペが市民権を獲得。その立役者の1台となったマンタを、英国編集部が振り返ります。

2ドアクーペが市民権を得た1970年代

一般的な英国の労働者へ2ドアクーペが広がり始めたのは、1970年代初頭のこと。アメリカで人気を博したフォードマスタングの影響を受け、欧州フォードはカプリを投入。大西洋を挟んでも、滑らかなルーフラインが支持されることを証明した。

これへ触発されるように、1970年以降、4シーターや5シーターの2ドアモデルが次々とリリースされた。手頃な4気筒エンジンを載せて、ルノーやゼネラル・モーターズ(GM)、日本の各メーカーが新しい潮流を追いかけた。

オペル・マンタ A 1900(1970〜1975年/欧州仕様)
オペル・マンタ A 1900(1970〜1975年/欧州仕様)

2ドアクーペには特別な雰囲気があり、少し高めの価格を設定できた。それでいて、定番のサルーンがベースになることが多く、必ずしも開発費用がかさんだわけではない。技術者だけでなく、経営部門の意向も強く働いていた。

ドアが2枚少なくても関心を寄せる購買層に向けて、特徴的なモデル名が与えられ、オシャレなボディはステッカーで彩られた。ルーフラインと引き換えに後部座席の空間が犠牲になったが、多彩なトリムグレードで補われた。

広告へ割かれる予算は潤沢だった。ステアリングホイールを握ったドライバーが満たされた笑顔になり、周囲の交通を置き去りにする。そんなイメージを表現すれば、充分な注目を集められた。

各社からクーペが出揃うと、内容の違いも浮き彫りになった。モーリス・マリーナ・クーペは4ドアサルーンのフォルム違いに過ぎなかった。他方、1970年9月のパリ・モーターショーで発表されたオペル・マンタの訴求力は高かった。

フォード・カプリに対抗する新モデル

発表時点でマンタは独立したモデルだったが、2週間後に登場するアスコナと多くを共有することを、自動車ジャーナリストは知っていた。小さなカデットと大きなレコルトの間に収まるべく、計画が進んでいた中型サルーンだ。

オペルは、滑らかなスタイリングのグランドツアラー、GTの進化版であることを強調した。これは全長4113mmと小柄な2シーター・クーペで、アメリカではビュイック・ディーラーを通じて販売されたが、オペルの名を記憶してもらうのに一役買った。

オペル・マンタ A 1900(1970〜1975年/欧州仕様)
オペル・マンタ A 1900(1970〜1975年/欧州仕様)

5シーターで実用性に勝るマンタは、1900スポーツクーペを名乗りアメリカへ上陸。1973年からは、マンタ・ラクサスというモデル名へ改められた。

モデルライフの途中で5マイル・バンパーと呼ばれる堅牢なバンパーの追加と、排気ガス規制に伴うパワーダウンを余儀なくされた。それでも、欧州製の経済的なモデルは人気が高く、セカンドカーとして少なくない数が大西洋を渡っている。

マンタのスタイリングを手掛けたのは、当時32歳という若さだったデザイナー、ジョージ・ガリオン氏。デザイン部門を率いていたのは、チャック・ジョーダン氏だった。

ガリオンは1969年にドイツのオペルへ移動。副ディレクターへ就任し、プロジェクト1450という番号が振られた新モデルのボディを6週間で生み出した。

クーペモデルの発売に対しては、社内に反対する意見もあった。それでもジョーダンがガリオンへ指示したのは、フォード・カプリに対抗するモデルの創案だった。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ジェームズ・マン

    James Mann

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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