【マッスルカーの絶頂期】シボレー・カマロSS 396とシェルビーGT500 1969年の火花 前編

公開 : 2021.06.19 07:05

アメリカン・マッスルカーの象徴といえる、シボレー・カマロSSとシェルビー・マスタングGT500 コブラ。カリフォルニアで1969年の熱い2台を振り返ります。

マッスルカーを発展させたフォード

text:Greg Macleman(グレッグ・マクレマン)
photo:James Mann(ジェームズ・マン)
translation:Kenji Nakajima(中嶋健治)

 
10年ほど前まで、アメリカに住む人たちがこれほど分断・対立するとは、誰も予想していなかっただろう。しかし、アメリカの自動車ファンの間には以前から明確な対立構造が存在していた。根深い社会問題と、同列に並べられるものではないけれど。

往年のマッスルカーを愛する人は、ブルーオーバルのフォードとボウタイのシボレー、どちらを支持するかで二分されてきた。その対局化のピークは、1969年にさかのぼる。

シェルビーGT500 コブラ・ジェット(1967〜1970年)
シェルビーGT500 コブラ・ジェット(1967〜1970年)

アメリカの元祖マッスルカーは何だったのか、しばしば議論されることがある。オールズモービル・ロケット88だという人もいれば、ポンティアックGTOだと主張する人もいる。しかし、そのコンセプトを発展させたのがフォードであることは間違いない。

若く裕福な世代へ向けられたフォード・マスタング。デザイナーは、自動車の新セグメントまでも創造した。ボディの大きな1950年代を卒業し、コンパクトでパフォーマンス重視のモデルを作り上げた。

マスタング成功の鍵は、高性能なV8エンジンと端正なスタイリングの2ドアボディ、2476ドルという手頃な価格設定との組み合わせ。中でもボディ内側の構造は、特に重要な役割を果たしている。

フロアパンやメカニカル部品の多くは、エキサイティングという言葉が似合わない、フォード・ファルコンやフェアレーン譲り。生産コストやサービスの手間を抑えて、新モデルの投入を可能としている。

年間50万台以上のマスタングを販売

フォードが設定した年間目標台数を、発売直後の4か月で達成。マスタングは1964年にディアボーンから勢いよくスタートダッシュを決め、公道でも確固たる地位を確立した。

シボレーの役員室は、大慌てだっただろう。マスタングにアメリカ市民が熱狂するほど、デトロイトの重役たちは冷や汗をかいたに違いない。

シェルビーGT500 コブラ・ジェット(1967〜1970年)
シェルビーGT500 コブラ・ジェット(1967〜1970年)

自動車メディアのレビューは高評価で、映画007シリーズのゴールドフィンガーやサンダーボール作戦では銀幕デビュー。量産の母、フォードを持ってしても生産が追いつかないほど、前例のない反響を呼んでいた。

ゼネラル・モーターズ(GM)には、技術的に進んだ2ドアの4シーターモデルとして、コルヴェアがあった。1965年発売の2代目には水平対向6気筒エンジンを搭載し、ターボで加給することで182psを獲得。独立懸架式サスペンションも備えていた。

しかし、いとも簡単にフォードへお株を奪われた格好だった。もちろん、GMは早い段階でマスタングを警戒し、実車を発売から数週間後に入手。Fカーと呼ばれる競合モデルの開発に向けて、社内戦力を投入した。

フォードは独断状態でポニーカーを販売。1965年と1966年に、それぞれ50万台以上のマスタングを顧客のもとへ届けた。そこへシボレーはFカーの開発をたった2年で仕上げ、1967年9月にカマロを発表。戦いの火蓋が切られることになる。

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