2.2Lにボアアップで250馬力 ジェンセン・ヒーレー 一緒に過ごして半世紀 前編

公開 : 2023.04.15 07:05

現役時代はダットサン240Zと伍したジェンセン・ヒーレー。1人のオーナーが半世紀近く大切にする1台を、英編集部がご紹介します。

北米ではダットサン240Zと戦った

1970年代の安全基準と排気ガス規制を満たしたブリティッシュ・スポーツとして、ジェンセン・ヒーレーは望ましい内容に思える。国を代表する2つのブランド名を掲げ、名門ロータスが製造する16バルブ・ツインカムエンジンが載っていた。

英国オペルヴォグゾールのモダンなコンポーネントを流用し、クラシカルな雰囲気でありながら200km/hに迫る最高速度を実現。操縦性にも優れ、1810ポンドという手頃な価格は、オースチン・ヒーレー3000からの乗り換えにもピッタリだった。

ジェンセン・ヒーレー(1972〜1975年/英国仕様)
ジェンセン・ヒーレー(1972〜1975年/英国仕様)

エンジンは賑やかに回転し、カーブを描くボンネットは速度の上昇とともに風切り音を鳴らした。それでも、当初の自動車評論家の反応は決して悪いものではなかった。想定された年間1万台という販売見込みも、甘すぎる数字ではなかったと思う。

3000の後継モデルとして、北米市場では日本からやってきた新参者、ダットサン240Z(日産フェアレディZ)とシェア争いを繰り広げた。年代物のMGBやトライアンフTR6の次を検討するドライバーにも、好適な新モデルといえた。

モノコック構造のボディは、心が奪われるほど美しいスタイリングではないかもしれない。それでも、要求が厳しくなる北米の規制に合致させつつ、まとまりは悪くない。醜いという言葉は当てはまらないだろう。

製造が始まった1972年から、ジェンセン・モータースが破綻する1976年までの間に、1万人以上のドライバーがジェンセン・ヒーレーを選んだ。少なくとも、まったく売れなかったわけではない。

ジェンセンとオーナーの終焉が導かれた

このロードスターは、見た目以外に大きな問題を抱えていた。製造品質は低く、エンジンの開発水準が不充分だったことは、マニアの間では知られた事実だ。加えて、大きな需要に応えられる生産能力が工場にない、という基本的な課題も横たわっていた。

英国で自らのブランドを創業したドナルド・ヒーレー氏がジェンセンの会長を務め、工場の労働者は反抗的で、北米で輸入代理店を営むジェル・クヴェール氏が遠隔でプロジェクトを監視した。スムーズに製造される様子は、想像しにくい。

ジェンセン・ヒーレー(1972〜1975年/英国仕様)
ジェンセン・ヒーレー(1972〜1975年/英国仕様)

1973年には改良版のMk2が登場し、エンジンは調子を整えていた。しかし、その頃にはドナルドは事業から手を引いていた。結果的に投資は不発に終わり、ジェンセン・モータースとオースチン・ヒーレーの終焉が導かれた。

今回ご紹介するクルマのオーナー、ロバート・ヒックマン氏が1976年にスポーツカーを探し始めた頃、ジェンセン・ヒーレーはすっかり存在感を失っていた。悩ましい欠陥が話題に登ることも少なかった。

自分にとって理想的なクルマを欲する、珍しくない若者だったらしい。大学を卒業したばかりで予算は限られ、所有していたMGBを売却したお金を加えても、中古車が関の山だったという。

「1972年式で、71番目に工場で製造されたクルマでした」。地元の中古車店で売りに出ていたジェンセン・ヒーレーを発見した当時を、ロバートが振り返る。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    リュク・レーシー

    Luc Lacey

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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