溢れる才能にふさわしい価値 エンビリコス・ベントレー(2) ワンオフの流線型ボディ

公開 : 2024.02.04 17:46

とあるギリシア人実業家の資金力で作られたベントレー ル・マン24時間レースへ3年連続で参戦 戦前の英製クーペの中で最高の容姿 英国編集部がご紹介

初のル・マン24時間レースで6位完走

1938年に仕上がっていた「エンビリコス」ベントレーのスタイリングは、11年を経て改良が必要になっていた。1949年のル・マン24時間レースへ向けて、ボンネットはレザー・ストラップで固定。2分割のリアウインドウ部分には、給油口が追加された。

リアブレーキ冷却のため、リアフェンダーには3本のスリットが切られた。キャビン内へどこまで手が加えられたのかは不明だが、当時のル・マン・マシンとして、際立って洗練されたスタイリングだったことは間違いない。

エンビリコス・ベントレー(4 1/4リッター・シャシー/1938年/英国仕様)
エンビリコス・ベントレー(4 1/4リッター・シャシー/1938年/英国仕様)

ドライバーのHSF.ヘイ氏と、トミー・ウィズダム氏のペアは安定して周回を重ね、夜間も走行距離を伸ばしていった。だが残り数時間というところで、トップギアが故障。4.25L直列6気筒エンジンは、高回転域での常用を余儀なくされる。

それでも、エンビリコス・ベントレーは日曜日の午後4時まで耐え抜いた。新しいアストン マーティンを抑え、初参戦で6位完走という素晴らしい戦績を残している。

翌1950年のル・マンにも、ヘイは参戦。パートナーにはアマチュアドライバーのヒュー・ハンター氏が選ばれた。ボディに12番のゼッケンが与えられ、3本構成のマフラーへアップデート。バンパーは残されていたが、見た目は依然としてモダンだった。

その年もヘイは完走するものの、14位。ベントレー勢では、ハードトップを載せたロードスターが8位を掴んでいる。

完走扱いにならなかった3年目

1951年にもヘイは参戦。コ・ドライバーは、トム・クラーク氏が務めた。ジャガーCタイプが速さを見せつけたが、エンビリコス・ベントレーも善戦。ところがダイナモが壊れ、続けてライトも故障。最後のピットストップでは、エンジンも止まってしまう。

順位を落としながらもヘイはエンジンを復活させ、フィニッシュラインを通過。だが、規定の最低走行距離に約6km及ばず、3年目は完走扱いにならなかった。2765kmを走り、順位としては22番手に残っていた。

エンビリコス・ベントレー(4 1/4リッター・シャシー/1938年/英国仕様)
エンビリコス・ベントレー(4 1/4リッター・シャシー/1938年/英国仕様)

ヘイはゴール後、観戦した自身の家族と記念撮影。英国から積んできた荷物を流線型のベントレーへ載せ直し、ダイナモを修理し、バカンスへ旅立った。

驚くことに、パリ経由でグレートブリテン島へ戻る途中、最後の耐久レースへ挑むためフランスのオートドロム・ドゥ・リナ・モンレリへ立ち寄っている。タイヤ交換もせずに、手強いオーバルコースを走ったという。

その時に残した最高速は、170.5km/h。1939年に発案者のウォルター・スリーター氏が残した記録へ、約2km/hまで迫っている。

1969年までエンビリコス・ベントレーはヘイが保管し、サザビーズ・オークションへ出品され、4000ポンドの高額で落札された。16年後に再びオークションへ掛けられると、12万ポンド以上の値が付いた。

アメリカ・カリフォルニアへ渡ると、カーコレクターによる丁寧なレストアが待っていた。ボディは美しいグレーへ塗り直され、2001年のコンクール・デレガンス、メドウ・ブルックでベスト・オブ・ショーを受賞するなど、以来、数多くの称賛を集めている。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ミック・ウォルシュ

    Mick Walsh

    英国編集部ライター
  • 撮影

    トニー・ベイカー

    Tony Baker

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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