【エンターテインメント・ワゴン】マーキューリー・エイト 戦地を歴訪したサンドカラー 前編

公開 : 2021.05.30 07:05  更新 : 2022.08.08 07:30

フォードとリンカーンの中間ブランド

売り文句は、「フォード・リンカーンの水準を展開し、優れた機械品質に先進的なデザイン、突出した価値を新しい価格帯で提供します」。というもの。最終的に、このマーキュリーへは砂漠用の迷彩塗装が施されるのだが。

大西洋の反対側で、戦争や大恐慌の恐怖にさらされずにいた北米の人たちをターゲットにしていたマーキュリー。シルクのスカーフを優雅になびかせるような、女性も視野に入っていた。

マーキュリー・エイト・ミリタリー・ステーションワゴン(1939年)
マーキュリー・エイト・ミリタリー・ステーションワゴン(1939年)

フォードより強力なエンジンを載せ、価格は高かったがリンカーンよりは手頃。トルクも充分にある96psのV8エンジンに、油圧ブレーキを採用していた。

2ドアと4ドアのボディが初年度から提供され、翌1940年のクラブ・コンバーチブルは大きな人気を集めた。だが、キャンベルがオーダーしたようなステーションワゴンはなかった。

英国の技術者、レスリー・バラミーの監修によるフロント・サスペンションも独創的だ。彼は、フォード・ポピュラーやオースティン・セブンが採用する、スプリットアクスル構造と呼ばれるサスペンションを考案した人物。独立懸架式の、初期の構造といえる。

キャンベルも、自身のレースマシンへそのサスペンションを採用していた。しかし現在のマーキュリー・エイトには、無骨なソリッドビームがフロントに付いている。バラミーが手掛けたという輝きは、戦争で失われている。

フォームビーと53日間の長旅

キャンベルは1940年9月に、バラミーへ手紙を書いている。特別仕立てのサスペンションを評価するとともに、時間をかけてテストしたことで、お礼が遅れたことを侘びていた。すべての結果に満足していると、まとめられていたという。

ステーションワゴンのマーキュリー・エイトは、ロイヤル・アルバート・ホールで開かれた1943年のチャリティ・イベントの後にオークションへ出品。フォームビーの手へと渡る。その場所でキャンベルと顔を合わせたようだ。

マーキュリー・エイト・ミリタリー・ステーションワゴン(1939年)
マーキュリー・エイト・ミリタリー・ステーションワゴン(1939年)

スピード自慢のキャンベルだったが、フォームビーもV型12気筒のラゴンダでサーキットを走り、160km/hを記録した経験を持っていた。2人の話は弾んだことだろう。

キャンベルが作らせたマーキュリーは、フォームビーの次のツアーに理想的なクルマになった。ミュージカル映画、ベルボトム・ジョージの撮影を終えると、53日間の長旅が始まった。熾烈な戦いと荒野に疲れた軍隊のために。

デビッド・ブレットがまとめたフォームビーの伝記によると、彼は英国軍に娯楽を提供する目的で設立された国民娯楽協会(ENSA)へ、バイクに乗れないか事前に確認をとっていたという。軍の隊列へ送れずに移動したいと考えていたようだ。

ENSAは、フォームビーの打診を否定した。そのかわりマーキュリーの利用を認め、同行するスタッフやピアニストのために、テントが用意された。クルマに残されたブラケット類は、その証拠といえる。

この続きは後編にて。

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