別次元の価値観 オースチンA70 ヘレフォード・カントリーマン 6年のレストアで再生 前編

公開 : 2023.02.11 07:05

税金を安く抑える目的で生まれた、ウッドボディのステーションワゴン。貴重な現存車両の1台を、英国編集部がご紹介します。

税金対策で誕生したウッディ・ワゴン

丸みを帯びた柔らかなボディ。得もいわれぬ親近感が湧いてくる。 オースチンA70 ヘレフォード・カントリーマンは、現代とはまったく異なる価値観で作り出された実用車だ。生産された期間は1951年から1954年と、長くはなかった。

専ら走る場所として想定されたのは、町と町を結ぶ郊外の一般道。高速道路へ立ち入る機会は少なかった。走行スピードも、100km/hを超えることは殆どなかっただろう。

オースチンA70 ヘレフォード・カントリーマン(1951〜1954年/英国仕様)
オースチンA70 ヘレフォード・カントリーマン(1951〜1954年/英国仕様)

新車として販売されていた頃、英国を走っていたのは多くが戦前に生産されたクルマ。幹線道路は、重い荷物を積んだトラックで溢れていた。少なくないドライバーが、運転免許を持っていなかった。車検制度もなかった。

遅いクルマの追い越しは、リスクの高い賭けといえた。1950年には、約5000名が交通事故で命を落としていた。

自動車の普及はこれからで、恵まれたお父さんはサンデー・ドライバーとして週末を楽しんだ。自慢の1台をガレージに保管し、自らオイルを交換し、ディストリビュータのポイントを調整した。当時の子供にとって、ドライブはご褒美の1つだった。

そんな時代に、オースチンA70 ヘレフォード・カントリーマンが誕生したきっかけは、税金対策。終戦直後の英国で作られた多くのシューティング・ブレークと同様に、郊外でスポーツを楽しむためではなかった。

量産モデルで市場をリードしたオースチン

世界的な混乱が加速していた1940年から、贅沢品は軍需品の材料の浪費とみなされ、英国では高い購入税が掛けられた。戦時になると、正しい判断がつかなくなる。1280ポンド以上の商品には、66%の税率が適用された。安価な品でも33%だった。

戦後に首相へ就任したクレメント・アトリーズ・レイバー氏は、鉄道の国有化を進めたが、特別な課税をすぐに見直すことはなかった。オースチンA70 ヘレフォード・サルーンの場合、車両価格は680ポンドでも、350ポンドの税金が掛かった。

オースチンA70 ヘレフォード・カントリーマン(1951〜1954年/英国仕様)
オースチンA70 ヘレフォード・カントリーマン(1951〜1954年/英国仕様)

しかし抜け道があった。バンなどの商用車は、課税対象ではなかったのだ。そのかわり、最高速度は時速30マイル、48km/hへ原則では制限されていたが。

厳しい経済状況のなかで、様々なクルマをベースにシューティングブレークが製作された。それらは、地方の小さなコーチビルダーがワンオフで手掛けることが多かった。

スチールは供給不足が続いていたが、木材とアルミニウムには制限が設けられず、比較的入手しやすかった。また、商用車向けのキャビンが載ったシャシーは、主に輸出向けに生産されていたサルーンより購入しやすかった。

これらの条件が重なり、英国ではウッドボディのシューティングブレークやステーションワゴン、通称ウッディが一時的に普及した。特にオースチンは正式な量産モデルを提供し、市場をリードしていた。

パップワース・インダストリーズ社と提携し、多くのウッディが生産された。A70 ヘレフォード・カントリーマンも、その1台へ含まれる。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    トニー・ベイカー

    Tony Baker

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

別次元の価値観 オースチンA70 ヘレフォード・カントリーマン 6年のレストアで再生の前後関係

前後関係をもっとみる

関連テーマ

おすすめ記事