別次元の価値観 オースチンA70 ヘレフォード・カントリーマン 6年のレストアで再生 前編

公開 : 2023.02.11 07:05

驚くほどの高品質な仕事で応えた職人

パップワース・インダストリーズ社は、第一次大戦後に、結核患者への治療資金と生活基盤を支える仕事を提供するため、グレートブリテン島の南東、ケンブリッジで創業。農機具や家具、革製品など、部門に別れたワークショップが備わっていた。

1947年の時点では、クルマのボディはまったく手掛けていなかったが、木工職人は仕事を必要としていた。オースチンのフランク・ジョーダン氏が何気なく電話をかけると、すぐに話しはまとまったようだ。

オースチンA70 ヘレフォード・カントリーマン(1951〜1954年/英国仕様)
オースチンA70 ヘレフォード・カントリーマン(1951〜1954年/英国仕様)

オースチン・シックスティーン(16)のシャシーへ載せる、250台分の木製ボディを受注したパップワース・インダストリーズ社は、オースチンが驚くほどの高品質な仕事で応えた。すぐに、250台の追加製造が決まるほど。

1948年にオースチンA70 ハンプシャーが開発されても、ウッディを製作する関係は続いた。シックスティーンより遥かにモダンな見た目のA70は、スタンダード・ヴァンガードへの対抗モデル。独立懸架式のフロント・サスペンションが自慢だった。

A70 ハンプシャーのウッディ・ワゴンにはカントリーマンという名前が付けられ、900台が量産された。さらにロンドンのディーラー、カーマート社から、別の仕様で200台の注文もあった。

オースチンが直接生産を依頼した900台は輸出が前提だったものの、カーマート社の200台は国内で販売。テレビの中継車やモータースポーツのサポート車両、ホテルの送迎タクシーなどに用いられた。

丸裸のボディでワークショップまで自走

1950年、A70 ハンプシャーの後継モデルとして、6シーターのヘレフォードが登場。エンジンはオースチンFX4 タクシーと同じ、2199cc直列4気筒のままだったが、新しい油圧ブレーキを搭載。ホイールベースは75mm伸ばされていた。

それ以前と同様に、途中まで作られたA70 ヘレフォード・サルーンは、5台毎にロングブリッジのオースチン工場から、ケンブリッジのパップワース・インダストリーズ社へ自走で運ばれた。距離は約160kmあった。

ボディにはドアがなく、フロントガラスより後ろ側は丸裸の状態。ワークショップに到着すると、ルーフが切断され、アッシュ(トネリコ)材を用いたボディフレームと、カンバス生地のルーフが被せられた。

ドアの取り付け部分とサイドシル、ホイールアーチを除いて、Aピラーより後ろ側のボディに、スチールは用いられていなかった。テールゲートも含め、強固なフレームの内側には、マホガニー材などのベニア材がピタリとはめられた。

パップワース・インダストリーズ社で仕上げられたA70 ヘレフォード・カントリーマンは、オースチンのショールームを彩った。利用シーンが描かれた、イラスト入りのパンフレットで販促されたという。

この続きは後編にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    トニー・ベイカー

    Tony Baker

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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