19台のみのハンドビルド オースチン・ヒーレー100 プロトタイプ 英国スポーツの雛形(1)

公開 : 2023.09.24 17:45

公道仕様にはBN1 テスト車両にはSPL

内装もハンドメイド。特にセンタートンネル部分のトランスミッション・カバーは形状が独特。量産仕様ではリベット止めされた2つの部品で構成されるが、アルミ製パネルから叩き出されている。

ステアリングホイールは17インチ。オースチンのロゴが入ったホーンボタンが、中央で輝く。

オースチン・ヒーレー100 プロトタイプ(1953年)
オースチン・ヒーレー100 プロトタイプ(1953年)

ダッシュボードも1枚のプレスではなく2枚で構成され、シートは木製の土台を介して床に固定されている。位置調整のため、何個か穴が開いているのが興味深い。シャシー側も、2か所から固定位置を選べるようになっている。

フロアパンには100-1ではなく、100と刻印されている。車体を持ち上げシャシーを観察すると、シャシーレール同士が突き合わせ溶接されている。被せ合わせたリップ部分ではなく。ステアリングラックの位置も2種から選べる。

エンジンは、アヒルの卵のように鮮やかなライトブルー。ラジエターダクトやファンカバーがなく、コンポーネントを流用したオースチンA90の面影がある。

ウォリックでハンドビルドされた19台のプロトタイプのうち、15台は公道仕様として車体番号の頭にAHXが付けられ、BN1のシャシー番号が与えられた。他方、特別なテスト車両にはAHRで始まる車体番号とSPLのシャシー番号が振られた。

ボディカラーは、シャシー番号BN1ではすべてヒーレーアイス・ブルー。SPLはメタリックライト・グリーンで統一された。現存するプロトタイプは少なく、最初の3台は北米へ輸出され、1台が残っているようだ。

プロトタイプと量産仕様の違いは50か所

ドイツのフランクフルト・モーターショーに出展されたのはAHX4だが、現存していない。AHR5はスイス・ジュネーブ・モーターショーのために作られたが、後にヒーレー100 Sへ改造を受け販売されている。

AHR6は、NOJ 392のナンバーで登録され広報用車両としてメディアに露出。1954年のル・マン24時間レースを戦った後、現在はオリジナル状態へレストアされ生き延びている。AHR7は1955年のル・マンを戦い、こちらもまだ大切に乗られているという。

オースチン・ヒーレー100 プロトタイプ(1953年)
オースチン・ヒーレー100 プロトタイプ(1953年)

AHR8とAHX9は廃車になった。AHX10は飛び番号でそもそも作られておらず、AHX11は現存する。AHX15とAHX17、AHX18、AHX20は消息不明。AHX19はNUE 855のナンバーで走れる状態にあり、2015年にオーナーが変わっている。

今回のヒーレーアイス・ブルーのプロトタイプは、AHX16の車体番号を持つ。販売を前提に製造された最初の右ハンドル車に当たり、非常に貴重なヒーレー100 BN1だ。

現オーナーは、クリス・ディクソン氏。識者の協力を得ながらプロトタイプと量産仕様の違いを50か所ほど特定し、ウォリックのワークショップをラインオフしたままの姿を目指してレストアされている。

ボディはジェンセン社による手作りで、初期のシェルはすべて微妙に異なる。ボンネットの開閉方法や、テールライトの造形も量産版と違っている。フロントの大きなスポットライトも特徴といえるだろう。

この続きは英国スポーツの雛形(2)にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ポール・ハーディマン

    Paul Hardiman

    英国編集部ライター
  • 撮影

    トニー・ベイカー

    Tony Baker

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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