不評だったステップノーズ トヨタ・クラウン(4代目) クジラ・クーペの不思議な魅力(1)

公開 : 2023.10.22 17:45

海外で過小評価されてきたトヨタ・クラウン 2段に別れたステップノーズ グレートブリテン島の残存は1台 レクサスの原点を英国編集部が振り返る

1960年代から英国で支持を集め出した日本車

高水準の量産モデルを低価格に提供することで、日本車は1960年代に入ると英国でも一定の支持を集めるようになっていた。ある程度の時間が過ぎ、信頼性も優れることが判明すると、東洋の新しいブランドに対する不安感は安心感へ転じていった。

フォードやヒルマン、BMCへ乗っていた英国人は、トヨタダットサンマツダのショールームへ足を運ぶようになった。そこには、熱線入りリアガラスにラジオ、バックライトなどが標準装備された、価格競争力の高いモデルが並んでいた。

トヨタ・クラウン(4代目/1971〜1974年/英国仕様) 
トヨタ・クラウン(4代目/1971〜1974年/英国仕様) 

完璧な仕上がりではなかったかもしれない。ボディは錆びやすく、小柄な日本人に合わせた車内は少々窮屈だった。しかし、輸入関税を加えても、値札の数字には訴求力があった。

もちろん、すべての英国人が日本の大衆車へなびいたわけではない。第二次大戦時の、苦々しい記憶を重ねる人は少なくなかったはず。若き筆者も、当初は冷ややかな受け止め方をしていたことは事実だ。

しかし、月日とともに印象は改善していった。英国の輸入代理店も、スペアパーツなどのサポート体制を整え、熱心に魅力を訴え続けた。

日本車は、自動車の白物家電化も進めた。手頃な日用品や家電品を選ぶように、無感情な「製品」を選ぶことに近かったといえる。ステアリングホイールやシフトレバーは軽く、操縦性は曖昧。淡白に運転をこなしたいユーザーには、好印象を与えたが。

2代目から欧州市場へ挑んだクラウン

実際の走りも、安全性へ配慮されつつ、パンフレットのイメージを超えることはなかった。ダットサン180B、610系ブルーバードのリアサスペンションは、独立懸架式が主張された。だが思い出の限り、母のクルマの乗り心地が落ち着いていたとはいえない。

トヨタ2000GTやマツダ・コスモ・スポーツといった、ドライバーズカーも頭角を現し始めていた。それでも、当時の日本車といえば、刺激に欠ける大衆的なファミリーカーを指していた。

トヨタ・クラウン(4代目/1971〜1974年/英国仕様) 
トヨタ・クラウン(4代目/1971〜1974年/英国仕様) 

排気量2.0L以下のクラスで存在感を強める一方、日本車は上級モデル市場では苦戦を強いられてきた。ダットサン240C(セドリック)や三菱デボネア、マツダ・ロードペーサーなどが、一般家庭の駐車場へ収まっているケースは珍しかった。

トヨタ・クラウンも、この中に含まれた。日本初の純国産車として、1.5L 4気筒エンジンを搭載した初代の登場は1955年。スタイリングは1950年代のアメリカ車的で、エンジンやトランスミッションは実力が及ばず、海外市場で成功を掴むことは難しかった。

ところが、1958年のラウンド・オーストラリア・ラリーで、クラウンは総合3位を勝ち取る。これをきっかけに、オーストラリアとニュージーランドでクラウンは人気を高め、1962年の2代目では現地生産もスタートしている。

1965年には、クラウン初となる直列6気筒エンジンが登場し、ステーションワゴンも選択可能に。欧州市場へは、ネザーランド(オランダ)とスカンジナビア半島から導入が始まった。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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