フェラーリのカリスマ、ルカ・ディ・モンテゼーモロが成し遂げたこと 【第7回】エンツォ・フェラーリ誕生秘話

公開 : 2024.05.25 08:05

エンツォ・フェラーリの哲学を直接受け継ぎ、フェラーリを世界最高の企業に復興させた男がルカ・ディ・モンテゼーモロだ。まさにカリスマといえるその足跡を、イタリアに精通するカー・ヒストリアンの越湖信一が辿る。

スタイリング開発にも積極的に関与

text:Shinichi Ekko(越湖信一)
photo: Ferrari S.p.A.、ITALDESIGN、Kazuhide Ueno(上野和秀)

ピニンファリーナとの関係性改善に乗り出したモンテゼーモロだが、彼自身も多くのスタイリング開発現場に携わり、その全権を握る遙か前よりフェラーリの開発現場に立ち会っていた。

彼はスタイリング開発において多くの信頼できるブレインを抱えており、ピニンファリーナへの強力なプレッシャーを与えることのできる、いわば彼らのライバルであるジョルジェット・ジウジアーロとも長く懇意にしていた。

懇意にしていたジョルジェット・ジウジアーロが、2005年に自身のデザイナー活動50周年を記念して制作したワンオフのGG50に、モンテゼーモロは快くフェラーリ・エンブレムの使用を許可する。
懇意にしていたジョルジェット・ジウジアーロが、2005年に自身のデザイナー活動50周年を記念して制作したワンオフのGG50に、モンテゼーモロは快くフェラーリ・エンブレムの使用を許可する。    ITALDESIGN

2005年にはジウジアーロのデザイナー活動50周年を記念してイタルデザインが制作したワンオフカーGG50にも、快くフェラーリ・エンブレムの使用を許可している。

モンテゼーモロはそれまでの豊富な経験の中から、ブレインの意見は参考にしつつも彼自身でプロダクツの方向性を判断する技量も磨いていった。それだけにスタイリングの開発現場では明確な意思表示をし、そのスタイリングが彼の定めたコンセプトからぶれないことを絶えずチェックしていた。

筆者もモンテゼーモロとフェラーリやマセラティ、はたまた他ブランドのモデルに関しての会話を交わしたことがしばしばあるが、彼のコメントは理論的であり、かつエモーショナルで説得力があったと認識している。もっともデザイナー達に言わせれば、朝令暮改の達人などと称されることもあるようだが(笑)。

経営トップがスタイリング開発に深く関わり、トップダウンでその決断を行うという風土はヨーロッパの自動車ブランドの特徴でもある。その決断には責任も伴うし、その判断をひとつ間違ったら経営が傾くこともありうるほどの重責だ。

しかし合議制を取り、判断の所在を曖昧にすることが良い結果を生まないことも彼は身を持って学んでいた。前述した550マラネッロ、F355360モデナなど、彼のプロデュースした各モデルはそのスタイリング・コンセプトが明確であり、マーケットの評価も高かったことを考えれば、彼の方向性は間違っていなかったのであろう。

期待に応えた奥山清行

当連載(第5回)でお話したように、土壇場で思わぬ大修正が入った360モデナのスタイリング開発現場だったが、まさにその場で、「事件」を興味深く見守っていた一人の人物がいた。

456GTのリスタイリング、そして充分な付加価値を備えた2+2モデルの612スカリエッティ、そしてフラッグシップの599GTBフィオラーノと矢継ぎ早にフェラーリのスタイリングを手がけ、新世代ラインナップを作りあげた奥山清行であった。

奥山清行氏は、ピニンファリーナ退職後にケン・オクヤマ・デザインを設立し、クルマのみならず鉄道車両や農業機械、家具、ロボットなど多岐にわたるインダストリアル・デザインを手掛け活躍中。
奥山清行氏は、ピニンファリーナ退職後にケン・オクヤマ・デザインを設立し、クルマのみならず鉄道車両や農業機械、家具、ロボットなど多岐にわたるインダストリアル・デザインを手掛け活躍中。    上野和秀

モンテゼーモロの改革も順調に進み、8気筒系も360モデナというニュージェネレーションの開発を終え、その総仕上げとして取り組んだのが創立60周年に向けての(実際は少し早いが)F50後継モデルであった。開発に際して多くの船頭が存在したF50とは違い、モンテゼーモロが自由自在に采配を振るって完成させた、まさに彼の代表作といえるのがエンツォ・フェラーリ(以下、エンツォ)であった。

エンツォはまさにイタリア自動車業界のオールスター・キャストが集結し、その中で企画が進められた。ピニンファリーナからはその黄金期を作りあげたセルジオ・ピニンファリーナ、フェラーリの親会社フィアットからはトップのパオロ・カンタレッラがサポート役を。そして、フィアットを牛耳る真のカリスマ、ジャンニ・アニエッリが健在であったことも忘れてはならない。

そんなフェラーリ史に残る重要なプロジェクトのスタイリング開発キーマンとして選ばれたのがピニンファリーナのデザイナー奥山清行であった。彼はピニンファリーナにおいてまだ2年のキャリアしか持たなかったにも関わらず、この特別なモデルをゼロから手掛けるという素晴らしい幸運に恵まれたのだった。

モンテゼーモロはエンツォに関してこのように語っている。「エンツォは私のフェラーリ人生の中でもっとも重要なモデルです。今まで『マラネッロ』、『モデナ』など、フェラーリと関わりの深い名を冠したモデルを手がけましたが、エンツォは別格です。創始者の名前を車名に付けるということは、それを作りあげる私たちにとてつもなく大きな責任が生ずるのです。しかし私たちはやり遂げることができた。結果として完成したエンツォはその名に恥じることのない、私達が考えうる中で最高のモデルとなりました」と。

しかし、奥山にとってこれはとんでもないプレッシャーの苦行であったことも間違いない。モンテゼーモロは全てを彼に任せた代わりに、その要求もとんでもなく厳しかった。さすがの彼もストレスで体を壊すほど……。

奥山が語ってくれた「人生を決めた15分」のエピソードは、とてもエキサイティングで筆者も大好きだ。スタイリング開発現場では、そのエピソードに描かれたようにとんでもなく切迫していた。

記事に関わった人々

  • 執筆

    越湖信一

    Shinichi Ekko

    イタリアのモデナ、トリノにおいて幅広い人脈を持つカー・ヒストリアン。前職であるレコード会社ディレクター時代には、世界各国のエンターテインメントビジネスにかかわりながら、ジャーナリスト、マセラティ・クラブ・オブ・ジャパン代表として自動車業界にかかわる。現在はビジネスコンサルタントおよびジャーナリスト活動の母体としてEKKO PROJECTを主宰。クラシックカー鑑定のオーソリティであるイタリアヒストリカセクレタ社の日本窓口も務める。
  • 撮影 / 編集

    上野和秀

    Kazuhide Ueno

    1955年生まれ。気が付けば干支6ラップ目に突入。ネコ・パブリッシングでスクーデリア編集長を務め、のちにカー・マガジン編集委員を担当。現在はフリーランスのモーター・ジャーナリスト/エディター。1950〜60年代のクラシック・フェラーリとアバルトが得意。個人的にもアバルトを常にガレージに収め、現在はフィアット・アバルトOT1300/124で遊んでいる。

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