【9.4L V12の最高傑作】1935年製 イスパノ・スイザJ12 美しい姿に隠す力強さ 前編

公開 : 2021.10.23 07:05  更新 : 2022.08.08 07:22

優雅なボディを生んだヴァンヴァーレン社

フロントノーズの重さが隠せなかったロールス・ロイスファントムIIIとは異なり、J12はエンジンやラジエターをフロント車軸の後方へレイアウト。優れたシャシーバランスを実現し、1930年代のコーチビルダーから注目を集めた。

ソーチック社やグラバー社、フェルナンデス&ダリン社など、当時のコーチビルダーの多くがJ12のシャシーへ特注ボディを製作している。中でも特に優雅な容姿を生み出したのは、ヴァンヴァーレン社だ。

イスパノ・スイザJ12 ヴァンヴァーレン・ドロップヘッド(1935年)
イスパノ・スイザJ12 ヴァンヴァーレン・ドロップヘッド(1935年)

オープンのドロップヘッド・スタイルで、人々の前に姿を表したのは1934年。当時の英国価格は3500ポンドと、ファントムIIIの2倍の価格が付いていた。

さかのぼること1931年、ガラスの天井を持つ当時最先端の展示会場、グラン・パレで開催されたパリ自動車ショー。ラ・ヴィ・オートモビル誌の自動車記者、シャルル・ファルーは1700kmの長距離テストを目的に、J12の貸し出しを希望する。

イスパノ・スイザ側も合意し、1931年10月にファルーはバリとニースの間をV12エンジンを載せたプロトタイプで往復。最高峰のエキゾチック・モデルが生む、202psを確かめた。

クルマがパリへ戻るとショールームに展示され、大きな白い紙が床に敷かれた。1週間の展示期間中、油や水は一滴も垂れず、シャシー設計の水準の高さを証明。当時の人を驚かせたという。

ビルキクトは前年、パリの北西、ボワ・コロンブ工場からスイス・ジュネーブ郊外の実家まで、J12のプロトタイプを走らせていた。ファルーの挑戦にも自信があったのだろう。

パブロ・ピカソもオーナーだった

世界恐慌で経済が冷え込む中、圧倒的な内容を持つイスパノ・スイザJ12は富裕層を魅了。ルーマニア王やアラブの王族、英国の金融王などがオーダーブックに名を連ねた。画家のパブロ・ピカソも。

究極といえるJ12は、レーシングドライバーのホイットニー・ストレイト氏とカルロ・フェリーチェ・トロッシ氏へ作られた。鉄道車両向け技術を応用した排気量11.3Lのエンジンが搭載され、最高出力は253psまで向上していた。

イスパノ・スイザJ12 ヴァンヴァーレン・ドロップヘッド(1935年)
イスパノ・スイザJ12 ヴァンヴァーレン・ドロップヘッド(1935年)

フランス国営鉄道の事業局長との契約で、ビルキクトはタイヤで走る鉄道車両用のエンジン開発を受注。航空機と自動車用のV型12気筒を発展させた、水平対向12気筒、タイプ86を設計している。

フランス産業が軍事主導に移るとイスパノ・スイザの鉄道開発も終了するものの、実は中国の雲南省で、今もV型12気筒エンジンを積んだ鉄道車両が稼働しているようだ。以前は、雲南ハイフォン鉄道で稼働していたという。

話がずれたので戻そう。筆者はペブルビーチ・コンクール・デレガンスの会場付近を走る様子以外、公道を走るイスパノ・スイザJ12を目にしたことがなかった。

一部の恵まれた人は、素晴らしいV型12気筒を、特に後期型の11.3L仕様を味わうことができている。その洗練度の高さには、きっと深く感心しているに違いない。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ミック・ウォルシュ

    Mick Walsh

    英国編集部ライター
  • 撮影

    オルガン・コーダル

    Olgun Kordal

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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