試作に消えたシューティングブレーク プジョー504 ブレークリビエラ カブリオレで再現 前編

公開 : 2022.10.15 07:05

クーペをベースにしたブレークリビエラ

V6エンジンを搭載した504 クーペは、燃費は褒めにくかったものの充分な速さを披露。1976年のサファリラリーでは、プジョーのワークスチームへ優勝をもたらしている。

一方で市場ニーズとしては4気筒も根強く、1977年に復活。V6エンジンはカブリオレでオプションという設定に切り替えられた。

プジョー504 ブレークリビエラ・プロトタイプ(1971年)
プジョー504 ブレークリビエラ・プロトタイプ(1971年)

504 クーペとカブリオレの右ハンドル車は、プジョーは生産しなかった。それでも、ホーデック・エンジニアリング社によって100台の2.0L 4気筒モデルがコンバージョンを受け、英国へ上陸している。

そして、これらとは別に広く知られていない、もう1つのピニンファリーナ版504が存在した。1971年のパリ・モーターショーに出展された、ハンサムなシューティングブレーク、「ブレークリビエラ」だ。

ピニンファリーナ側は、クーペをベースにした自主製作のワンオフモデルとして発表した。とはいえ、流麗なスポーツワゴンでプジョー側の反応をうかがっていたことは間違いない。実物大模型のモックアップも含めて、3台が作られたという説がある。

残念ながら、それらの行方は不明。プジョー・ミュージアムが秘蔵しているという噂もあるが、確かではない。

1台をスペインのカーマニアがコレクションしていた、という情報もある。1972年5月のバルセロナ・モーターショーを最後に公の目には触れていないため、信憑性は高いのかもしれない。

不発に終わったシューティングブレーク

当時のスペインを率いていたフランコ政権は、モーターショーの各ブースに最低5台は展示するようメーカーへ指示を出していたらしい。規模によってはプロトタイプが含まれても当然といえ、ピニンファリーナ社が会期後に現地で1台を処分した可能性はある。

同時に、不発に終わったシューティングブレークを当初からバルセロナで片付けようと考えていたのかどうか、疑問は残る。パリではライトブルーに塗られていたボディは、バルセロナではダークグレーに塗り替えられていた事実もある。

プジョー504 ブレークリビエラ・レプリカ(1972年式カブリオレ・ベース)
プジョー504 ブレークリビエラ・レプリカ(1972年式カブリオレ・ベース)

プジョー側の反応も、はっきりはわかっていない。パンフレットまで準備されたと話す人もいるが、いずれも確証はない。

ブレークリビエラのアイデアが実現に至らなかった理由は想像できる。開発資金や生産能力の不足、充分な市場規模がないという読みなどだ。新しいシューティングブレークというジャンルに、プジョーが二の足を踏んだとしても不思議ではない。

その後、ピニンファリーナ社はフィアットランチアにも、同様のワゴン・コンバージョンをそれぞれ提案している。フィアット130 クーペをベースにした1974年の130 マレンマは完成度が高かったが、オイルショックで実現しなかった。

1982年には、ランチア・ガンマ・クーペがベースのガンマ・オルジャータが発表された。しかし、既にガンマのモデルライフは終わりに近く、充分な反応を得ることはできなかった。

この続きは後編にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    リュク・レーシー

    Luc Lacey

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

試作に消えたシューティングブレーク プジョー504 ブレークリビエラ カブリオレで再現の前後関係

前後関係をもっとみる

関連テーマ

おすすめ記事

 

プジョーの人気画像