フェラーリやマセラティと公道レース ACエース・ブリストル 3台のみの空力ボディ 後編

公開 : 2022.11.05 07:06

サーキットで渡り合える有能なマシン

サスペンションは少し硬めだが、ドライバーを激しく揺らすほどではない。コーナーでは殆どボディロールせず、ステアリングはニュートラル。ACエース・ブリストルを高速に安定して走らせる、自信が湧いてくる。

速度域を問わず、コーナリングラインを調整するのに大きな筋力は不要。必要以上の集中力もいらない。スピードが増すほどにステアリングホイールは軽くなり、本能で操れるような、精度も高まっていく。

ACエース・ブリストル・ペンツ(1957年)
ACエース・ブリストル・ペンツ(1957年)

1950年代後半のショールームに並んでいたスポーツカーで、ブリストル・エンジンを搭載したACエースと互角に渡り合える、純粋なモデルは存在しなかったといえる。初代オーナーだったベネズエラのルピも、その訴求力へ惹かれたに違いない。

公道でも不安なく190km/h近いスピードに迫れ、燃費は7.1km/Lと当時としては優秀。乗り心地の良い、2シーター・スポーツカーだった。フェラーリマセラティを工面できない有能なドライバーにとっては、サーキットで渡り合える頼れるマシンにもなった。

政治の不安定なベネズエラで生き抜いた1台

カール・ペンツ氏は、3台のACエース・ブリストルに手を加えている。残りの2台のうち、アントニオ・イスキエルド氏のACエース・ブリストル、シャシー番号BEX149は1960年代以降の所在が不明。少なくとも、多くのイベントへ参戦した記録はある。

イスキエルドは後に売却し、ACカーズから新しいACエースを買い直したようだ。こちらのクルマは、1959年までコロンビアやベネズエラのレースに参戦し、現在もコロンビアで生き抜いている。

ACエース・ブリストル・ペンツ(1957年)
ACエース・ブリストル・ペンツ(1957年)

レニー・オットリーナ氏のACエース・ブリストルは、1957年のカラカス1000キロメーターズを走り終えると、マセラティ200Sと交換された。その200SにはV8エンジンが押し込まれドラッグレーサーへ転身したが、1980年代にスクラップと化した。

オットリーナ自身はレーシングドライバーでありながら、テレビ番組の司会者としても人気で、1978年のベネズエラ大統領候補にも選ばれている。しかし、選挙直前に飛行機事故で命を失った。

カール・ペンツ氏や、ACカーズの輸入代理店を営んでいたフアン・ジャック・フェルナンデス氏の消息も明らかではない。少なくとも政治の不安定なベネズエラで、1台のACエース・ブリストルが生き抜いたことだけは明らかだ。

協力:ペンディン・ヒストリックカーズ社

ACエース・ブリストル・ペンツ(1957年)のスペック

英国価格:2165ポンド(1957年時)/35万ポンド(約5775万円/現在)
販売台数:3台(ペンツ仕様のみ)
全長:4165mm
全幅:1500mm
全高:1245mm
最高速度:194km/h
0-97km/h加速:8.7秒
燃費:6.4-9.6km/L
CO2排出量:−
車両重量:813kg
パワートレイン:直列6気筒1971cc自然吸気OHV
使用燃料:ガソリン
最高出力:129ps/5750rpm/170ps(レース時)
最大トルク:17.6kg-m/4500rpm
ギアボックス:4速マニュアル

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ウィル・ウイリアムズ

    Will Williams

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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