フェラーリやマセラティと公道レース ACエース・ブリストル 3台のみの空力ボディ 前編

公開 : 2022.11.05 07:05

コブラの原型といえる、ACエース・ブリストル。ベネズエラの公道レースを戦ったマシンを、英国編集部がご紹介します。

独裁者が望んだスポーツカーレース

1952年から1958年にかけて、中南米ベネズエラで大統領の地位にあったマルコス・ペレス・ヒメネス将軍。陸軍参謀長だった時代にクーデターを起こし政権を奪うという、典型的な独裁者だった。

不正選挙や横領、批判的な言論への弾圧など、非難されるべき行動は少なくない。世界的にも不安定な地域の1つにあっては、珍しい政治的な動きではなかったともいえる。

ACエース・ブリストル・ペンツ(1957年)
ACエース・ブリストル・ペンツ(1957年)

一方でヒメネス政権下のベネズエラは、比較的安定していたことも事実だろう。1999年から2013年まで大統領に就任した軍人のウゴ・チャベス氏も、彼を高く評価していたとか。チャベスもまた、民主化への動きには批判的ではあったが。

ヒメネスが権力を握っている期間、彼は2億ドルもの予算を私的に流用したといわれている。それと同時に、産油国として得られた外貨で道路や学校、病院といった社会インフラを充実させ、地方経済の発展に貢献もした。

戦後の独裁者らしく、高級なクルマにも目がなかった。イタリアの独裁者、ベニート・ムッソリーニ氏のように。

彼が所有したクルマのなかでも特に溺愛していたといわれるのが、メルセデス・ベンツ300SL。友人だったアルゼンチンのレーシングドライバー、ファン・マヌエル・ファンジオ氏からドライビング・テクニックのレッスンを受けてもいる。

そんな独裁者が、1957年に自国でスポーツカーレースの開催を望んでも不思議ではなかった。自身の名を掲げたイベントとして。

フェラーリマセラティポルシェも参戦

ベネズエラには、自動車用のまともなサーキットは存在しなかった。しかし、公道レースやヒルクライムなら開催は可能だった。イタリアのミッレ・ミリアやメキシコのカレラ・パナメリカーナが、危険性を理由に中止へ追い込まれた時期にはあったが。

中南米のイメージといえば、ヤシの木が点在するうっそうとした原野に、細々と伸びる道路だと思う。気温は高く、湿度も高い。実際、そんな環境でカラカス1000キロメーターズは実施された。

ACエース・ブリストル・ペンツ(1957年)
ACエース・ブリストル・ペンツ(1957年)

スポーツカーレースに向けて準備されたのは、約10kmの閉鎖された公道。首都カラカスの南部にある、フエルテ・ティウナ基地に近い場所だ。マシンと観衆を隔てたものは、土のうと干し草の束だった。

1957年のカラカス1000キロメーターズは、世界スポーツカー選手権の最終戦としての開催が決まり、多くのファクトリーチームが出場。スター級ドライバーがベネズエラに集結し、シーズンタイトルを賭けた。

ドイツからはポルシェが、英国からはアストン マーティンジャガーが参戦。そのシーズンをリードしていたのは、ワークス体制で335Sを走らせたフェラーリと、450Sで同じく挑んだマセラティというイタリア勢だった。

しかし6時間の耐久レースでは、3台の450Sが脱落。マセラティにとって、ワークス体制によるモータースポーツ活動を辞めるキッカケになったことは、マニアの間では広く知られる過去かもしれない。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ウィル・ウイリアムズ

    Will Williams

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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