無二のミケロッティ・コンバーチブル フェラーリ166/195S インター 2.3L V12へ置換 後編

公開 : 2023.08.06 07:06

クーペとして誕生し、ルーフを切除され、最新V12エンジンへ置換された166。唯一無二の1台を英国編集部がご紹介します。

好戦的なイメージを与えたヴィニャーレ

1970年代初頭、フロリダ州の貸倉庫でフェラーリ166/195S インター・コンバーチブルは発見される。部分的にバラされた状態で、保管料も含めてオークションにかけられると、元FBI捜査官で弁護士だったオットー・ボーデン氏が落札した。

ボーデンはフェラーリ・コレクターとして知られた人物で、走行可能な状態へレストア。37年間所有し、しっかり走らせて楽しんだようだ。

フェラーリ166/195 インター・コンバーチブル(1951年/欧州仕様)
フェラーリ166/195 インター・コンバーチブル(1951年/欧州仕様)

2007年には欧州へ移り、フェラーリを得意とする職人、アントニオ・コンスタンティーニ氏の工房へ。エンジンや電気系統がリフレッシュされ、フランスにディーラーを構えるジャン・ギカス氏が購入。2014年以降、166/195Sはスイスで過ごした。

オリジナルの166 インターが作られた頃へ話を戻すと、イタリア・トリノのヴィニャーレ社は、1950年から1954年に約40台ぶんのフェラーリ用ボディを製作している。軽量なレーシングカーと公道用のグランドツアラーを、同程度生み出した。

特にヴィニャーレ・ボディのレーシングカーは軽く、ミッレミリア・レースでは3年連続で優勝している。初期のフェラーリはシャシーのみを提供することが珍しくなく、カロッツエリア独自のボディが架装されることも一般的といえた。

1946年に創業したヴィニャーレ社は、フェラーリにワイルドで好戦的なイメージを与えることが得意で、多くの顧客の支持を集めた。俳優のロバート・テイラー氏やウィリアム・ホールデン氏といったスターも、オーナーに名を連ねた。

既存部品は用いないディティールへの拘り

ヴィニャーレ社は40名程度と小規模ながら、スピーディーなボディ生産を可能としていた。人件費も高くはなく、他のカロッツエリアが数か月必要とする作業を、数週間の単位でこなしたという。

ジョヴァンニ・ミケロッティ氏が描いたデザインスケッチをもとに、職人が木槌や土のうで叩いてボディパネルが成形された。ただし工作精度は高くなく、ボディは左右対称に仕上がらなかった。ドアの長さが、右と左で50mm違う例もあったようだ。

フェラーリ166/195 インター・コンバーチブル(1951年/欧州仕様)
フェラーリ166/195 インター・コンバーチブル(1951年/欧州仕様)

叩き出されたボディパネルのうねりはパテで均され、研磨され、滑らかに整えられた。リベットやボルトで、チューブラーシャシーに固定された。

このダークブルーに塗られた166/195Sのアルミ製ボディには、余計な装飾が殆どない。そのかわり、明るいブラウンのインテリアが良く引き立つ。これまでの時間に、フロントバンパーやフォグランプは失われている。

それでも、小さなテールライトや格納式ドアハンドルなどはオリジナルのまま。ヴィニャーレはディティールへ拘った。可能な限り、既存部品は用いようとしなかった。

ソフトトップは、シートの後ろ側へ折りたたまれる。頭上空間は狭いが、閉めても美しさは変わらない。トランクリッドは、左右のハンドルを水平に倒すと開く。なかには、60Lの燃料タンクが隠れている。

ボンネットとトランクリッドに、ホワイトのレーシングストライプが施されていた時代もあったようだが、最近のレストアで消されている。ない方がずっといい。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ティム・スコット

    Tim Scott

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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