WRCで最も過激だった1980年代 8車8様 グループBの暴れ馬 

公開 : 2019.05.19 10:10  更新 : 2020.12.08 10:40

グループBの歴史について

ここでグループBについて簡単におさらいしておこう。出場できるクルマのレギュレーションを緩和し、WRCへ参加するマニュファクチャラーを増やすことを目的に、FIAがグループ4と置き換えるかたちで導入されたカテゴリーがグループB。実際その目的は果たされ、様々な自動車メーカーやチームが、WRCへ参戦することとなった。

レギュレーションのJ項目には、エンジンの排気量や車重、タイヤのトレッド幅などによってクラス分けされる内容が記されていた。排気量は1300cc未満のクラスから4段階のカテゴリーが存在し、過給機付きエンジンには、自然吸気エンジンに対して1.4倍の排気量のハンディキャップを受けることも含まれていた。ターボチャージャーやスーパーチャージャーなどで過給されるエンジンには1.4の係数がかけられ、例えばランチア・デルタS4の排気量は1759ccだったが、排気量のクラスとしては2500ccに分類されていた。

規定では、すべてのクルマの定員は最低2名とし、1年間で200台以上を製造する必要があったが、従来のグループ4では2年間で400台以上の製造となっていたから、要求は半分になったといえる。ターボのブースト圧に上限はなく、ターボ技術の発達に合わせて最大出力は急激に増加した。アウディ・クワトロS1やプジョー205T16 Evo2などは、1986年当時で500ps以上を発生させていたといわれる。

マシンの性能が過激さを増していた1986年、フランスのコルシカ島で開かれていたツール・ド・コルセで、才能あふれる若きドライバー、ヘンリ・トイヴォネンと、コ・ドライバーのセルジオ・クレストが死亡事故を起こす。トイヴォネンがドライブするデルタS4は、緩いカーブでコースを外れ崖下へ転落し、マシンは大破したうえに炎上。ふたりは命を落としてしまった。

この重大な事故の発生だけでなく、沿道に詰めかけた観客との接触事故も多発するようになっており、FIAはグループBの中止を決定する。わずか4年で終わりを迎えることとなったことは事実だが、史上最も凄まじいラリーマシンが生まれたことも事実。今回はその代表モデル8台を振り返ってみたい。

next pageプジョー205 T16 EVO1

関連テーマ

おすすめ記事

 

MGの人気画像