レーシング・ジュニア・マセラティ オスカMT4 セブリング12時間での格下勝利 前編

公開 : 2022.06.19 07:05

小さな宝石のようなスポーツカー

これが偶然の勝利ではないと証明するため、翌年もオスカMT4はセブリング12時間へ出場。ロイドと手を組んだドライバーは、ジョージ・ハントゥーン氏だった。

結果、総勢80台が入り乱れたサーキットを最後まで生き抜き、総合7位という悪くない結果を残している。モスがドライブする、2.7Lエンジンのオースチン・ヒーレー100Sに次ぐ順位だ。

オスカMT4(1954年/欧州仕様)
オスカMT4(1954年/欧州仕様)

輝かしい記録を刻んだシャシー番号1137のオスカは、フロリダ州のレブズ・インスティチュート博物館に保存されている。今でも多くの観客を集める、目玉の展示車両の1つだという。

「小さな宝石のようなクルマです。素晴らしい、小さなスポーツカーでした」。とモスは言葉を残している。後年、彼は自信のレースを振り返るように、オスカ1500 Sを購入した。

このセブリングでの番狂わせ的勝利に、筆者は幼い頃から夢中になってきた。1950年代に作られたスポーツ・レーシングカーをいつか運転したいと、夢に描いてきた。新車の頃から、英国では高価で珍しい存在だった。

そんなオスカMT4を、近年のミッレ・ミリアで走らせたのがアレクサンダー・フィシェ氏。イタリア車を心から愛する彼は、マセラティ兄弟が直接手掛けたクラシックを以前から切望していた。

1997年、素晴らしい経歴を持つMT4がロンドンのブルックス・オークションへ出品される。アレクサンダーにとって、シチリア島に20年ほど眠っていたオスカは、またとない魅力的な選択肢だった。

ル・マンやミッレ・ミリアにも参戦

シャシー番号1143のMT4-2ADというモデルで、フィアット由来のツインカムエンジンを搭載していた。1954年と1956年、1957年にはミッレ・ミリアで活躍しており、現代のクラシックカー・ロードレースにもうってつけだった。

生産は1954年4月。フランチェスコ・ジャルディーニ氏が最初のオーナーで、モスのMT4とは異なり、当初の排気量は1092ccと小さかった。初参戦のミッレ・ミリアは、クラッチの不具合でリタイアしている。

オスカMT4(1954年/欧州仕様)
オスカMT4(1954年/欧州仕様)

めげない彼はツインスパークの1490ccエンジンに載せ替え、同年6月のル・マン24時間レースに出場。真っ赤なボディに42番のゼッケンを付けクラスをリードし、23時間が過ぎた時点で、総合7位を走っていた。

ところが、ジャルディーニはミュルザンヌ・コーナーでスピンアウト。惜しくもリタイアしてしまう。すぐにボディは修復され、カステルフサノ・ローマ6時間耐久レースへ参戦。総合2位でフィニッシュし、ようやくMT4の強さを証明した。

その後、MT4はフィレンツェに住むレーシングドライバーのアティリオ・ブランディ氏が購入。その資金で、マセラティのスポーツ・レーシングカー、A6GCSをジャルディーニは購入したようだ。

ブランディは1956年に1092ccエンジンへ戻し、ミッレ・ミリアへ出走。14時間48分というタイムで、1100ccクラスでの優勝を掴んだ。1958年と1961年には、シチリア島の伝説的な公道レース、タルガ・フローリオも走っている。

この続きは後編にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ミック・ウォルシュ

    Mick Walsh

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ウィル・ウイリアムズ

    Will Williams

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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