まだまだ頑張る現役総編集長の奮闘録
2025.07.05
今回の笹本総編集長コラムは、昨年11月に亡くなった自動車画家『Bow。』こと池田和弘さんとの思い出を語ります。Bowさんといえばカー・マガジン誌の表紙イラストですが、その出会いはその前身であるスクランブル・カー・マガジン創刊よりも前となる、1978年だったのです。

【笹本総編集長コラム】Bowさんのお別れの会が開かれます
もくじ
ー Bowさんと出会った、1978年のこと
ー Bowさんと行った、2度のアメリカ取材
ー 趣味を同じくする仲間が、また一人
Bowさんと出会った、1978年のこと
カー・マガジンの創刊号からずっと表紙のイラストを描いていたBow (池田和弘)さんが、昨年の11月に亡くなりました。
Bowさんに初めてお会いしたのは、ネコ・パブリッシングが創業して間もなくの1978年である。当時目黒に住んでいたBowさんの自宅を訪ね、編集中の『心に残る名車の本シリーズ 第4巻 ブリティッシュ・ライトウエイト・スポーツ』の表紙のための作品をお願いした。
その頃のネコ・パブリッシングはまだ、企画室ネコの時代で、スクランブル・カー・マガジン(後のカー・マガジン)もこの世に存在せず、今でいうワンメイクのムックを2ヵ月に一冊発行している小さな出版社であった。
Bowさんは、当時既にイラストレーターとしての地位を確立していたが、弱小出版社の依頼を快く引き受けてくれ、最初の作品であるMG-Aのイラストを描き下ろしていただいた。
締め切り間際に原稿を受けとった際、初めて原画を見て、味のある画風としっとりとした質感は印刷物よりもはるかに深みがあり、原画はすごいなあと感じたのを今でも覚えている。
その後、ムックには毎回書き下ろしていただき、次第に親しくなってよくクルマの話をするようになった。Bowさんはコブラが好きで、特にたった5台しか作られなかったデイトナ・コブラをぜひ一度見てみたいと話していたが、それが後に実現するのである。
企画室ネコは、創業から4年目の1980年にはスクランブル・カー・マガジンを創刊するのだが、この時も表紙はBowさんにお願いした。Bowさんのイラストが、これから編集部が作り出す『趣味のクルマの世界』を象徴する雰囲気を醸し出していたからである。
Bowさんと行った、2度のアメリカ取材

Bowさんとは2回、アメリカ西海岸へ取材旅行に行っている。1回目は、1983年に初めてラグナセカ・ヒストリック・カー・レースの取材にご一緒した。
この時はフォードイヤーで、かの地のイベントの参加車種の凄さとオーガナイズのレベルの高さに呆然としながら3日間を過ごしたが、特にBowさんは写真でしか見ていなかったコークスクリューで、コブラの軍団が轟音と共に降りてくるのを目の当たりにして全身鳥肌がたったと、当時連載していた『BowのSCRAMBLE EGG』に書いている。
2回目は2年後の1985年、アリゾナのフェニックスに、コンペティション・コブラ4台を取材に行った時である。
この時、取材できたのは、260、289、427に加え、何と5台しか造られなかったデイトナ・コブラで、私の長い取材歴の中でも5本の指に入るほどの凄い取材であった。
Bowさんも次々とステアリングを握り、私も含めて、皆、至高の瞬間を味わう事ができたのだ。この時もBowさんは、毒蛇探検隊と称した連載で3回にわたって顛末を書いている。
趣味を同じくする仲間が、また一人

Bowさんの作品が次第に溜まってくると、まとめて単行本を作りたいと考えるようになった。Bowさんの連載エッセイは、イラストに負けず人気で、写真で紹介したように、時には表紙のイラストだけをまとめた豪華本にしたり、エッセイとイラストを織り交ぜた瀟洒な単行本にまとめたりした。これらの書籍を編集するのもとても楽しみであった。
いざ書いてみると、切りがないほどBowさんとはいろんなことをやって来たと感じるが、実はごく最近も、私が出版した鉄道の本をBowさんにお送りしたことが切っ掛けでメールをやり取りし、いつも鉄道の昔話で随分と盛り上がっていました。Bowさんも私も鉄道が好きで、模型作りもしていましたから、すぐに共通の世界に入れてしまうのです。
Bowさんと私は、趣味の世界へのアプローチがよく似ていて、言葉で話さなくても、常に分かり合える感覚がありました。
この度、Bowさんの訃報を聞き、驚くと同時に、小さな米粒のような出版社からスタートしたネコ・パブリッシングと一緒に出版業界で戦ってくれた同士がまた一人、かの地に旅立ってしまったかと、本当に寂しい気持ちでいっぱいです。
Bowさん、かの地でまた遊びましょう。しばしの間、待っていてください。ご冥福をお祈りいたします。