速すぎたフェラーリ121 LMの招いた死 シアタ208 CS メキシコ・クーペ(2) 才能と情熱は不滅だ!

公開 : 2024.03.24 17:46

1954年のカレラ・パナメリカーナを目指したシアタ208 CS クーペ ロータスへ通じるスピリット オリジナルのV8エンジンと5速MTでレストア 英国編集部がご紹介

制御不能に陥ったフェラーリ121 LM

1956年4月の公道レース、ペブルビーチ・ナショナル・チャンピオンシップへ、アーニー・マカフィー氏は参戦。カリフォルニア州モントレーへ続くワインディングは、走り応えのある区間として知られていた。

「路肩に並木が迫るコースですが、速すぎるフェラーリ121 LM(735 LM)が制御不能に陥る可能性を、多くの人は気付いていたでしょう」。と惜しむように話すのは、当時を知るレーシングドライバーのフィル・ヒル氏だ。

シアタ208 CS メキシコ・クーペ(1954年)
シアタ208 CS メキシコ・クーペ(1954年)

「彼のご婦人と、日曜日の朝に会話したのですが、彼女もレースを心配していました。わたしと同様に」

そんな予感は、現実になった。33周目、マカフィーは第6コーナーで痛恨のシフトミス。タイヤはロックし、ブラックマークを残しながら松の幹へ運転席側から突っ込み、彼は即死してしまう。

ヒルは、キャロル・シェルビー氏に次ぐ2位でゴールしているが、ショックの余り言葉を失ったという。「レースに加担したことへ、罪悪感のようなものを抱きました」。と振り返る。マカフィーの娘は、父親の顔を見ずに成長することになった。

石油王で彼を支援していたビル・ドヒニー氏も、友人の死に心を痛め、フェラーリとシアタのコレクションを封印。1958年には、カーマニアのウェス・ベルト氏へ手放すことを決める。

ワンオフのシアタ208 CS メキシコ・クーペを入手したベルトは、カリフォルニア州パームスプリングスのレースへ参戦。その後、シボレーのスモールブロックV8エンジンへ換装するなど、改造を加えていった。

オリジナルのV8エンジンと5速MTも発見

知人のアーティストに協力を仰ぎ、ボディの変更も計画された。フロントノーズを伸ばし、エアインテークを変更したアイデアが描かれ、ボブ・キャロル氏のワークショップへ持ち込まれるが、幸いにも実施されなかったようだ。

塗装が剥がされ、アルミニウムの素地が露出したボディは、屋外に放置。付近にあったデザイン大学の学生から、注目を集めたらしい。

シアタ208 CS メキシコ・クーペ(1954年)
シアタ208 CS メキシコ・クーペ(1954年)

幸運なことに、カーコレクターのリック・コール氏が1982年に発見。イタリア車へ詳しい、アントン・クリバネク氏の知識を借り、マカフィーの208 CS メキシコ・クーペだと判明した。

コールが購入すると、クリバネクが2年間をかけてレストア。自動車雑誌を介して、オリジナルのフィアットV8用エンジンと、5速マニュアルの所在も見つけ出した。丁寧な仕事で、当時の姿は蘇った。

作業で判明した事実が、スパイダーと同じボックスセクション・シャシーがベースなこと。通常の208 クーペは、チューブラー・フレームを採用していた。

実はマカフィーは、1953年のカレラ・パナメリカーナへ、小さな1600ccエンジンを積んだ208 スパイダーで参戦。シャシーだけでなく、カギにも穴を開けるなど、徹底的な軽量化が図られ性能は高かった。最初のセクションでは、5位を走るほど。

しかし、先頭のポルシェを追い越した直後にコースアウト。コンクリート製の道標へヒットし、リタイアしてしまう。強い衝撃でステアリングラックにヒビが入り、フロントのクロスメンバーは曲がったという。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ミック・ウォルシュ

    Mick Walsh

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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