速すぎたフェラーリ121 LMの招いた死 シアタ208 CS メキシコ・クーペ(2) 才能と情熱は不滅だ!

公開 : 2024.03.24 17:46

観衆の記憶へ刻まれたエグゾーストノート

その年、マカフィーは無事だった。「来年また戻ってきます。もっと軽量化の穴が必要かも」。という、冗談交じりのコメントを残している。

レストアを進めるクリバネクは、スパイダーの軽量化されたシャシーを知っていた。208 CS メキシコ・クーペは、現存しないと考えられていた、1953年のスパイダーがベースではないかと考え始めた。

シアタ208 CS メキシコ・クーペ(1954年)
シアタ208 CS メキシコ・クーペ(1954年)

インターネットが存在しない1980年代、情報収集は困難を極めたが、彼の推測は間違いだと判明。スパイダーは、1954年にもレースを戦った情報が残っていた。

クーペのボディを、誰が描き出し、成形したのかは不明。スパイダーのデザイナーはジョバンニ・ミケロッティ氏で、形にしたのはカロッツェリアのベルトーネ社。両者がクーペへ関わっても不思議ではない。だが、その証拠は残っていない。

シアタの歴史に詳しい専門家の多くは、シアタ社のワークショップで作られたのではないかと考えている。マカフィーの指示を得ながら。

レストアを終えた208 CS メキシコ・クーペは、1984年のモントレー・ヒストリック・オートモービル・レースへ参加。1955年以前のスポーツカー・クラスでコールがドライブし、ランチア・アウレリアやジャガーXK120などと競い、4位を掴んでいる。

会場となったラグナセカ・サーキットの名物コーナー、コークスクリューでは、激しい減速と共に、2.0L V8エンジンがアフターファイアの破裂音を炸裂。カリフォルニア州へ上陸してから30年という節目に、観衆の記憶へ刻まれたに違いない。

才能や情熱が消えることはない

1956年にフェラーリ121 LMで命を落としていなければ、その時のマカフィーは65歳。ツイン・ウェーバーキャブレターの調整を、彼が手伝っていたかもしれない。

208 CS メキシコ・クーペは、1991年にリビルドを受け、イタリア・ミッレミリア・レースのため欧州へ上陸。その後、当時のオーナーはオークションへ出品し、収益はアメリカの医療研究施設、スクリプス研究所へ寄贈された。

シアタ208 CS メキシコ・クーペ(1954年)
シアタ208 CS メキシコ・クーペ(1954年)

現在のオーナーは、ドイツ人のカーマニア。ハンブルクのシュタインケ・シュポルトワーゲンサービス社へリビルドが依頼され、完璧な状態が維持されている。2023年の英国コンクール・オブ・エレガンスで、仕上がった姿は公開された。

伸びやかなボディラインと、シャープで切れの良いエグゾーストノートは、当時のまま。オーナーは積極的にクラシックカー・イベントへ参加しており、最近では常連の1台になっている。

マカフィーが命を落としたコース上には、かつて慰霊碑が立っていたが、現在は残っていない。クルマを再生させたクリバネクも、2020年にこの世を去ってしまった。しかし、208 CS メキシコ・クーペは、今後もわれわれに勇姿を披露してくれるはず。

彼らの才能や情熱は、カタチに残り消えることはない。サイドガラスの赤いステッカーも、色褪せずに残ってほしい。

協力:フィスケンス社、トニー・アドリアエンセン氏、グッドウッド・モーター・サーキット

記事に関わった人々

  • 執筆

    ミック・ウォルシュ

    Mick Walsh

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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