もとはV12エンジンのGPマシン! ドライエ・タイプ145 シャプロン・ボディのスーパークーペ(2)

公開 : 2024.04.27 17:46

V12エンジンのGPマシンとして誕生したドライエ・タイプ145 シックなシャプロン・ボディのクーペへコンバージョン 完璧なレストアを受けた1台を英国編集部がご紹介

1938年に始まった2台のクーペの開発

ドライエ・タイプ145は、グランプリマシンの2台を含む、計6台が製造されたようだ。現存は5台。今回の例と同様に、カリフォルニアのクラシックカー・コレクター、故ピーター・マリン氏が4台を所有していた時期がある。

ドライエを率いたチャールズ・ヴァイフェンバック氏は、タイプ145用シャシーを、親交の深かったコーチビルダー、シャプロン社へ提供。グランプリマシンにならなかった1台のタイプ145と併せて、1938年から2台のクーペの開発が始まった。

ドライエ・タイプ145 シャプロン・クーペ(1947年/欧州仕様)
ドライエ・タイプ145 シャプロン・クーペ(1947年/欧州仕様)

ところが、スタイリングの決定間際にナチス軍が侵攻。パリにあったシャプロン社の工場は閉鎖され、プロジェクトは棚上げに。デザイナーのアンリ・シャプロン氏はフランス中部のヌアンル・フュズリエに移り、ワークショップを立ち上げた。

終戦後、60歳を迎えたアンリは事業を再始動。シャプロン社は、シャシー番号48772のタイプ145をエキュリー・ブルー・レーシングチームから購入。グランプリマシンから美しい公道用クーペが作られた。

オーダーしたのはフランス・ヴォージュに住むロバート・キュニー氏。当初6か月後といわれていた納期は遅れたが、塗装や内装の仕上げの打ち合わせが時間を埋めた。最終的に、フランスらしいブルーに、グレーのプリーツ・レザーでコーディネートされた。

納車は翌1947年。意気揚々とV型12気筒エンジンを始動させたキュニーだったが、調子は芳しくなかった。専門家のフェルナン・ラクール氏のワークショップで、オーバーホールを受けている。

複雑で燃費の悪いV12は直6へ換装

調子を取り戻したタイプ145は、動力性能を発揮させるべく、ラリー・ド・ロレーヌというイベントへ参加。エレガントなシャプロン・ボディは、多くの称賛を集めたはず。

フランスの南東、アルザス地方で走りを堪能したであろうキュニーは、2年後に売却。パリでドライエのショールームを営んでいた、ジャン・ピエール ベルナール氏が買い取っている。

ドライエ・タイプ145 シャプロン・クーペ(1947年/欧州仕様)
ドライエ・タイプ145 シャプロン・クーペ(1947年/欧州仕様)

しかし、複雑で燃費の悪いV12エンジンは維持上での課題に。1950年代初頭に、タイプ135へ載っていた直列6気筒エンジンへ置換されたようだ。ボディも、グリーンへ塗り直されたらしい。

その後、レーシングドライバーのシュルンフ兄弟が購入。1967年には、エド・アンドリュース氏へオーナーが変わり、タイプ145はアメリカへ。彼は本来の仕様へ戻すことを決断し、オリジナル・エンジンを捜索した。

無事に発見されたV12エンジンも、シカゴへ。しかし、複雑な構造ゆえにリビルドもレストアも完了しなかった。

コーチビルド・ボディのドライエがアメリカに存在するという噂は広まり、失われた宝石として、カーコレクターの間で話題に。1980年代に入り行動へ移したのが、カリフォルニアのビル・ハインズ氏。友人のビル・ジェイコブス氏に調査を依頼した。

その日のうちに行方は判明。アンドリュースと連絡が付き、売却交渉へ。取引を終えたタイプ145は、西海岸へ移された。

真っ先に着手されたのが、V12エンジンの再生。購入したハインズは、クラシックカーへ詳しい専門家のアレック・ジャイモ氏へ作業を依頼する。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ミック・ウォルシュ

    Mick Walsh

    英国編集部ライター
  • 撮影

    トニー・ベイカー

    Tony Baker

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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