フェラーリに8年先行したロードカー ドライエ・タイプ145 シャプロン・ボディのスーパークーペ(1)

公開 : 2024.04.27 17:45

V12エンジンのGPマシンとして誕生したドライエ・タイプ145 シックなシャプロン・ボディのクーペへコンバージョン 完璧なレストアを受けた1台を英国編集部がご紹介

レーシングカー水準の性能をロードモデルへ

1938年、V型12気筒エンジンを動力源にしたスーパークーペが、フランスのドライエによって生み出された。それ以前にも、イスパノ・スイザやキャデラック、ラゴンダ、ロールス・ロイスなどがV12モデルを提供していたが、それは上質さを求めてだった。

しかし、ドライエの着想はレーシングカー水準の動力性能を、欧州大陸を横断するような2シーター・グランドツアラーへ与えること。ベースになったのは、同社のタイプ145というグランプリマシンだった。

ドライエ・タイプ145 シャプロン・クーペ(1947年/欧州仕様)
ドライエ・タイプ145 シャプロン・クーペ(1947年/欧州仕様)

サーキットを想定したシャシーへ、その頃のF1に相当するレースで活躍した4.5L V12エンジンが載せられた。このアイデアは、フェラーリより8年も先行したものといえた。

ところが悔やまれることに、ドイツ・ナチスが隣国への侵略を開始。ドライエの計画は、1939年に中止へ追い込まれてしまう。

シルバーアローと呼ばれたドイツ代表のメルセデス・ベンツ・チームに、ドライエは1938年のフランス・ポー・グランプリで勝利していた。それに気分を害したヒトラーが、車両の破壊命令を下していたという噂も流れていた。

戦後、無事に破壊を免れたタイプ145は、1台が穏やかにデチューンされ、フランスのコーチビルダー、フラネ社が取得。2台は高性能グランドツアラーの雛形を生み出したといえる、コーチビルダーのシャプロン社が購入した。

エレガントな戦前スタイルのクーペ

シャプロン社に渡った2台のタイプ145には、戦前のスタイルを踏襲したクーペ・ボディが与えられた。既に流線形が一般化しつつあったが、両脇へ張り出したフェンダーが特長になった。

長いボンネットには無数のルーバーが開けられ、伸びやかな後ろ姿はエレガント。流れるようなフォルムを印象づけるため、ボディサイドなど各部はクローム・モールで飾られた。1954年に消滅してしまうドライエへ、素晴らしい遺作を残したといえる。

ドライエ・タイプ145 シャプロン・クーペ(1947年/欧州仕様)
ドライエ・タイプ145 シャプロン・クーペ(1947年/欧州仕様)

フロントはドライエ流といえるデザインで、フェンシングのマスクに似たラジエターグリルが象徴的。シートの背面には荷物用のスペースが設けられ、その後方へスペアタイヤと燃料タンクが収まった。

ドアを開けば、美しく加工されたウッドが目に飛び込んでくる。ダッシュボードは両端でカーブを描き、ドアフレームも美しく覆われている。

スピードメーターは170km/hまで振られ、タコメーターは4000rpmまで。レザーシートには華やかなプリーツが施され、フロア・カーペットは微塵の隙間もない。3スポーク・ステアリングホイールが、レーシングカーとの血統を匂わせる。

3枚のペダルがタイトに並び、4速マニュアルのシフトレバーは長い。当時のライバル、ブガッティやタルボと同じく、車内には特別な雰囲気が充満している。しかし4.5L V12エンジンを目覚めさせると、鋭いサウンドが共鳴し、気持ちが鼓舞される。

アクセルペダルの操作へ、エンジンは敏感に反応。クリーミーに回り、即座に豊かなトルクが湧き出てくる。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ミック・ウォルシュ

    Mick Walsh

    英国編集部ライター
  • 撮影

    トニー・ベイカー

    Tony Baker

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

ドライエ・タイプ145 シャプロン・ボディのスーパークーペの前後関係

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