TOJIRO__夢と青春の痕跡、浮谷東次郎と船橋サーキットの伝説

2015.06.13〜08.30

text:Kunio Okada (岡田邦雄) photo:Makoto Hiroi (廣井 誠/AUTO GALLERIA LUCE)

 
あなたは浮谷東次郎をご存知ですか? 覚えているとおっしゃる方は、ほとんど60歳を超えた方たちでしょう。しかし、一瞬、一瞬を真剣に生きた浮谷東次郎には若い頃からの自伝があり、それは文庫にもなっているので、世代を超えて東次郎のことを知っている人も少なくはないと思います。

彼は江戸時代から続く裕福な旧家の一族に生まれましたが、そんな境遇に育った子供にありがちな、無気力で嬾惰な人間ではありませんでした。好奇心に溢れ、興味を抱いた対象には我を忘れるほど夢中になり、何事にも全力投球で打ち込みました。克己心が強く、常に自分の現状に甘んじる事はなかったのですが、人にはとても優しい少年でした。

今しがた少年と言いましたが、1942年7月16日に千葉県市川で生まれて、1965年8月21日に鈴鹿サーキットでアクシデントに見舞われた彼は、23歳で亡くなりました。彼はそのあまりにも早い晩年に至るまで、素朴な少年の風貌のままでした。

浮谷東次郎が物心ついた頃に、父親の洸次郎は、ガソリン・スタンドや自動車の販売店、自動車教習所の経営に携わっておりました。洸次郎は熱心な自動車愛好家で、若い頃には、1936年に完成した多摩川サーキットで開催された自動車レースに足を運んでおりました。

そんな裕福で自動車好きの父親の息子であったゆえの恩恵も受け、小学生の頃から一族の敷地で自動車やオートバイを運転しておりました。1957年、中学3年生の夏休みには、買ってもらったドイツ製の50ccのバイクで、千葉の市川から大阪でホテル暮らしをしていた母の祖父のもとまで走るという、往復1500kmのツーリングを敢行しました。国道といえども、ほとんどが無舗装の砂利道だった時代です。それはたいそうな冒険でした。

高校3年生の時にはアメリカへ留学しました。現地ではアルバイトをして生活費や学費を稼ぎ、オートバイで一人旅をし、またレースでも活躍しました。3年近い滞在の後、1963年6月末に帰国すると、友人たちからつい2ヶ月ほどに開催された日本グランプリの話を聞かされました。すぐにトヨタに自分を売り込んで、レーサーとしての契約を結びます。それから彼の鈴鹿通いが始まります。誰よりも研究熱心でした。

1965年5月には鈴鹿サーキットで1日にふたつのレースで優勝を遂げました。しかし、何より日本のレース界で彼の名前を不朽のものとしたのは、この年に鈴鹿サーキットに続く、戦後の日本でふたつ目のサーキットとして千葉に開設された船橋サーキット最初のビッグ・レースでの活躍でした。レイン・レースとなりましたが、ひとつ目のレースではロータスエランに乗り横綱相撲のような堂々とした優勝を遂げました。そして、もうひとつのレースでは、当時から注目されていた生沢 徹とトップ争いの最中に、スピンを喫した生沢のホンダS600と接触。傷を負ったトヨタ・スポーツ800の車体の修理にピットに入り、応急処置を施すとレースに復帰して、最後尾から鬼神が乗り移ったかのような追い上げをして、生沢を捉えて逆転優勝を遂げました。この日から、彼の活躍は大いに期待され、彼自身も世界という舞台に羽ばたく意志を持っていましたが、それから1ヶ月後の鈴鹿サーキットで、事もあろうにコース上に入り込んだ人をよけるために照明灯に衝突し、短い生涯を終えました。

今回のアウト・ガレリア・ルーチェの企画展は、浮谷東次郎の生涯の跡を追い、同時に鈴鹿サーキットに続いて戦後2番目に出来た船橋サーキットの一瞬の光芒を垣間見ることによって、始まったばかりの日本の’60年代前半のレース・シーンを多面的に浮き上がらせる展示です。8月30日まで開催されていますので、まだの方は一度ご覧のなることをお勧めします。

  • 当時浮谷が乗ったS800は現存せず、こちらはトヨタが造り直したCCCレース仕様が展示された。通常はメガウェブで飾られている。

  • 生沢のセミワークスといえるS600も現在所在が不明になっている。当時イエローだったが、今回はホワイトのS600レーシング並べられた。

  • 船橋サーキットのレースで、田中健次郎の操縦で3位に入った実質的にニッサンのワークスカーのP410ブルーバードも再現された。

  • GT-1レースで印象的だったのは、スバル360の活躍だ。ワークスカーでドライバーは小関典幸。船橋に合っていたのか、排気量で勝る連中をかもった。

  • とじの名傍役がダイハツ・コンパーノ・スパイダー。こちらは吉田隆郎と久木留博之の、ダイハツのワークスドライバーが乗り、活躍をした。

  • 当時のレースに描かせない存在が日野コンテッサだ。ミケロッティ・デザインのスタイルが特徴だが、当日のGT1ではそれなりの成績だった。

  • 東次郎がアメリカから持ち帰ったタイプライターや、愛用の万年筆、ヘルメットやカフスボタン。彼のアルバムのからプライベートな写真も多数展示。

  • 東次郎のレースデビューは第2回日本グランプリ。翌年の事故死まで出場したレースは数えるほどだが、熱心に練習し多くのトロフィーを獲得した。

  • 東次郎が最初に手に入れたのはドイツのクライドラーだった。50ccのモペットで、中学3年生の夏休みの時に、千葉の市川と大阪1500kmを往復した。

  • 自分の体験を誰にでも分け与え、走行法もレース専門誌などで公開した。これは、当時レーサーを志す者のバイブルとなった鈴鹿攻略法の原稿。

  • 幼なじみの式場壮吉はレーシングメイトを経営。東次郎や生沢は、レーシングメイトのジャケットをいつも着ており、当時の若者の憧れだった。

  • 鈴鹿でレーシングカー製作を夢見る林ミノルと仲良くなる。東次郎は彼にS600を自由に改造していいよ、と伝え、誕生したのが「カラス」だった。

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