創業者が堪能した試作ボディ オースチン・ヒーレー100S クーペ 2660ccの4気筒 前編

公開 : 2022.12.18 10:40  更新 : 2022.12.18 11:28

通常の100Sも生産は50台のみ

1954年にも、4台のスペシャル・テスト・カーが作られた。これらの試作車によって、モータースポーツ前提の量産版100Sの内容が煮詰められ、1954年に発表。1955年までに僅か50台のロードスターが生産されている。

100Sのアルミニウム製ボディとシャシーのユニットは、ジェンセン社がトリムの仕上げまで担当。ワーウィックにあったヒーレーの工場で、職人がメカニズムを組み込んだ。

オースチン・ヒーレー100S クーペ(1953年/英国仕様)
オースチン・ヒーレー100S クーペ(1953年/英国仕様)

試作されたクーペボディの100Sでも、ロードスターと同じくダンロップ社のディスク・ブレーキを採用。リアダンパーは調整式のアームストロング社製で、100S用にチューニングされたトランスミッションが搭載されている。

エンジンはスペシャル・テスト・カー仕様。1953年にアメリカ・ボンネビル・ソルトフラッツで最高速度記録にチャレンジしたマシンの、アルミ製シリンダーヘッドも組まれていた。そこではドナルド自身のドライブで、229.5km/hの記録を残している。

100Sの市場の反応は良好で、ヒーレーの工場はロードスターの生産に追われた。ところが、ダンロップだけでなくオースチンからのアップグレード部品の供給も、安定しなかったようだ。

モータースポーツの日程も過密気味だった。小さな開発チームにとっては、とても多忙な時期だったに違いない。

100Sを所有したいと夢見てきた現オーナー

1953年末に完成した100S クーペで、ドナルドはジェフとともにかなりの距離を走行した。自らのスポーツカー・ブランドを立ち上げた彼は、まだ情熱的なドライバーのままだった。

伝説的ドライバーのスターリング・モス氏とともに、100Sクーペでイタリアの公道レース、ミッレ・ミリアの下見もしている。後年にモスがこのクルマと再開すると、当時の記憶がすぐに蘇ったそうだ。

オースチン・ヒーレー100S クーペ(1953年/英国仕様)
オースチン・ヒーレー100S クーペ(1953年/英国仕様)

創業者が好んだクーペボディではあったが、試作以上に作られることはなかった。ラインナップの拡大で、協力関係にあったBMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレーション)でのプレゼンスを高めようと考えたが、充分な販売は見込めなかった。

ボディの生産を請け負っていたジェンセン社も、余り乗り気ではなかった。膨らむ製造コストが理由だった。

1962年までドナルドはONX 113の100S クーペを走らせ、大排気量の4気筒エンジンを楽しんだが、その後売却。アレクサンダー・ハミルトン氏が購入し、10年後にコレクターのアーサー・カーター氏が譲り受け、現在まで大切に維持してきた。

「これまで何台のオースチン・ヒーレーを所有してきたかわかりません。恐らく14・15台だと思います。最初に買ったのは初期のBN1。1950年代に一目惚れしました」。カーターが笑いながら振り返る。

「いつか100Sを所有したいと、夢見ていました。雑誌で記事を読むたび、思いを強めていたんですよ」

この続きは後編にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ジェームズ・ページ

    James Page

    英国編集部ライター
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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