不評でもオープンは気持ちイイ トライアンフTR7 ジェンセン・ヒーレー 1970年代の苦悩 前編

公開 : 2023.04.09 07:05

ツインカムのロータス907ユニットを搭載

計画が実行へ移されると、従来のモデルと同様に、他メーカーの多様なコンポーネントを検討。英国オペルヴォグゾールのサスペンションとドライブトレインを利用することで決着した。

コードネームX500と呼ばれたモノコック構造は、ジェフと技術者のバリー・ビルビー氏が設計。ヒューゴ・プール氏が担当したスタイリングには、クヴェールも多くの意見を寄せている。インテリアは、ウィリアム・タウンズ氏が担当した。

ジェンセン・ヒーレー(1972〜1975年/英国仕様)
ジェンセン・ヒーレー(1972〜1975年/英国仕様)

エンジンは数種類が試されたが、北米の排出ガス規制へ合致させながら、目標とした132ps以上の最高出力を得ることに難航。軽さや大きさ、コストなども問題になった。オイルショックが重なり、良好な燃費を得るために4気筒は必至だった。

そんな折、コーリン・チャップマン氏が開発した2.0L 16バルブ・ツインカムのオールアルミ4気筒、ロータス907ユニットという候補が出現。チャップマンは開発コストの相殺に意欲的で、早期の完成を望んでいたクヴェールも前向きだった。

果たして、1972年に発売されたジェンセン・ヒーレーは、907ユニットを搭載した初の量産車に。しかし、これは完璧ではなく不具合が多かった。ロータスは品質を保証せず、ドナルドがジェンセン・モータースの経営から退く原因の1つを作ってしまう。

モデルの生産自体は、ジェンセン・モータースが破綻する1976年まで続けられた。それでも、オースチン・ヒーレーの再起には至らなかった。

斬新だったウェッジシェイプのスタイリング

対するトライアンフも、1968年に発売したTR6の後継モデルを必要としていた。オースチン・ヒーレーと同じ理由で、TR4A以来となる、PE104S型4気筒エンジンの変更が求められていた。MGBの直接的な競合になるという、副作用もはらんでいたのだが。

トライアンフは、ビュレットという名の新モデルの開発をスタート。並行して、同じBMC傘下にあったMGは、MGBの次期モデルとしてミドシップ・レイアウトのスポーツカー開発へ取り組んでいた。

トライアンフTR7(1975〜1981年/英国仕様)
トライアンフTR7(1975〜1981年/英国仕様)

初期の段階でビュレットの保守的なスタイリングを担当したのは、スペン・キング氏。横転時の安全性に対する規制が強化される北米市場を意識し、Tバールーフ・ボディが検討されていた。

エンジンルームは広く、トライアンフSD2という次期型サルーンの試作車とフロント・サスペンションを共有し、完成度は高かった。メカニズムはシンプルで、ポルシェ914にも似たスタイリングはハンサムだった。

反してMG側のミドシップ・モデルは、ハリス・マン氏のスタイリングは斬新だったものの、残念な方向へ進んでいた。そこでトライアンフのビュレットにマンのスタイリングが与えられるという、難解な決定がくだされる。

フロントエンジン・リアドライブの従来的なレイアウトに、エキゾチックなウェッジシェイプのボディで量産仕様は完成。BMCはトライアンフとMGの両ブランドでの販売も視野に入れたが、実現はしていない。

当初は、タレットトップと呼ばれるクーペのみでリリース。1979年にコンバーチブルが追加されている。

この続きは後編にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    サイモン・チャールズワース

    Simon Charlesworth

    英国編集部
  • 撮影

    ジョン・ブラッドショー

    John Bradshaw

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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