不評でもオープンは気持ちイイ トライアンフTR7 ジェンセン・ヒーレー 1970年代の苦悩 前編

公開 : 2023.04.09 07:05

ブランドの最後を飾った、トライアンフTR7とジェンセン・ヒーレー。2台のオープン・スポーツを、英国編集部が乗り比べました。

伝統のブランドへ最後のひと花

トライアンフTR7とジェンセン・ヒーレーは、ブリティッシュ・スポーツの1つの節目を飾った。伝統のブランドへ最後のひと花を咲かせた存在といえたが、英国で量産されるスチール製ボディのスポーツカーへ、一旦終止符を打つモデルにもなった。

どちらも、1970年代の混迷する自動車産業を象徴するように、多くの批判にさらされた。クラシックカーになった現在でも、好意的な評価を与える人は多くないだろう。

ブルーのジェンセン・ヒーレーと、シルバーのトライアンフTR7
ブルーのジェンセン・ヒーレーと、シルバーのトライアンフTR7

少々ぎこちないスタイリングだけではない。製造品質や信頼性は低く、ボディは簡単に錆びた。とはいえ、献身的なブランド・ファンがいなかったわけではない。数10年という時間を経て、見事な状態で生き残る例があるのだから。

2台が生まれたキッカケを遡ると、英国が抱えていた同じ課題へ辿り着く。1968年に誕生したブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーション(BLMC)の前身となる、1952年のブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)だ。

BMCの弱点は少なくなかったが、最大の1つといえたのが、開発車両へコストを投じすぎる傾向があったこと。1車種のモデルチェンジのために、異なる設計で複数の試作車が作られることも多かった。そのうえ、量産へ結びつかない場合もあったほど。

ジェンセンとのコラボでモデルチェンジ

特にBMC傘下のブランドの1つ、オースチン・ヒーレーでは、そんな苦悩が珍しくなかった。例えば、ファイアボールXL5という高性能スポーツカーの試作へ100万ポンドも費やしながら、量産車としては実っていない。

オースチン・ヒーレー3000 MkIIIの後任としてMk IVが開発されるものの、ヒーレー・ブランド創業者、ドナルド・ヒーレー氏は仕上がりに納得せず、販売はされなかった。BMCの既存モデル、MGBへ余りにも近すぎた。

ジェンセン・ヒーレー(1972〜1975年/英国仕様)
ジェンセン・ヒーレー(1972〜1975年/英国仕様)

ドナルドの息子、ジェフ・ヒーレー氏によれば、Mk IV用の新エンジンは重くトラブルが少なくなかったようだ。それまでのユニットと比べて、トルクも細かったという。

それでも、3000を置き換えるスポーツカーをオースチン・ヒーレーは必要としていた。北米市場への輸入代理店を営んでいた、ジェル・クヴェール氏も同様だった。彼は、MGCを気に入っていなかった。

そこで導かれた解決策が、ジェンセン・モータースとのコラボレーション。3000のボディを生産し、サンビーム・タイガーの製造を請け負っていた、その小さな自動車メーカーも新しい生産契約を必要としていた。

クヴェールは、ジェンセン・インターセプターを北米で販売して欲しいと要求されてもいた。当時のジェンセン・モータースは経営が厳しく、労働者との問題を抱えていた。彼は同社の株式の80%を取得し、ドナルドが会長に就くという、深い関係性にあった。

記事に関わった人々

  • 執筆

    サイモン・チャールズワース

    Simon Charlesworth

    英国編集部
  • 撮影

    ジョン・ブラッドショー

    John Bradshaw

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

不評でもオープンは気持ちイイ トライアンフTR7 ジェンセン・ヒーレー 1970年代の苦悩の前後関係

前後関係をもっとみる

関連テーマ

おすすめ記事