不評でもオープンは気持ちイイ トライアンフTR7 ジェンセン・ヒーレー 1970年代の苦悩 後編

公開 : 2023.04.09 07:06

ブランドの最後を飾った、トライアンフTR7とジェンセン・ヒーレー。2台のオープン・スポーツを、英国編集部が乗り比べました。

個性的なスタイリングが際立っていた

トライアンフTR7は、ジェンセン・ヒーレーと同様に高く評価されることはなかった。製造品質や信頼性に悩まされ、1975年の発売以降、改良が続けられたもののBMCの足を引っ張った。トライアンフの可能性を、充分に発揮できなかったといえるだろう。

16バルブ・エンジンを搭載したTR7 スプリントは、61台の試作を経て1977年に中断。1977年には北米向けにV8エンジンのTR8が登場するが、数100台のみで1978年に販売は終了した。右ハンドルのコンバーチブルは、18台だけに終わっている。

ブルーのジェンセン・ヒーレーと、シルバーのトライアンフTR7
ブルーのジェンセン・ヒーレーと、シルバーのトライアンフTR7

今回ご登場願った、貴重な1980年式TR7 コンバーチブルは、リンジー・デンプスター氏がオーナー。彼女が若かりし頃にも同じモデルを新車で購入し、後にクーペのTR7にも乗っていたという、かなりのマニアだ。

このシルバーのクルマは、COVID-19によるロックダウン中に売りに出ているのを発見。状態を確認せずに契約したが、ボディの補修とインテリアのリフレッシュ程度で済んだそうだ。

「1980年代には、個性的なスタイリングのクルマとして際立っていました。最初から、とても気に入っていましたよ。自分にとって最初のクルマとして選んだほどですから」。とデンプスターが振り返る。

「最近のクルマにはパワーステアリングが付いていて、運転している実感が薄いんです。これは、まさに自分で操っている感じ。少しガタもありますが、個性の1つとして楽しんでします」

ブランドらしいスポーティなDNA

ブルーのジェンセン・ヒーレーは、ティム・ギディ氏がオーナー。もとはMk IIとして開発されていた試作車で、Mk Iの名残もいくつか残っている。サビが酷いのでは、と尋ねると、彼は素直に認めた。

「最初は、ジェンセン・モータースのマーケティング・マネージャーが所有していたクルマです。フロアには板金の跡があって、大々的な作業が必要だとわかっていました」

ジェンセン・ヒーレー(1972〜1975年/英国仕様)
ジェンセン・ヒーレー(1972〜1975年/英国仕様)

「ある土曜日の午後、気持ち良く運転していたらタイミングベルトがずれて、10本のバルブを1発で曲げてしまいました。エンジンのリビルト中に、フロアの補修とボディの再塗装をしています」。と説明するギディは、ネジ1本まできれいにしたという。

「特別感があるんですよ。滅多に同じクルマとは出会いませんが、運転が本当に楽しい。現代の交通環境にも問題なく馴染めます。雨の日の運転は、余り気が進みませんが」

運転席へ座ってみると、見た目と同様に、2台の違いの大きさへ改めて気がつく。ジェンセン・ヒーレーは、ブランドらしいスポーティなDNAが色濃い。

ドライビングポジションは若干不自然で、人間工学的には改善の余地がある。クラッチは急につながる。それでも、先代のオースチン・ヒーレー3000より遥かにボディはガッチリしている。傷んだ路面を通過しても、フロアが粗野に震える様子はない。

記事に関わった人々

  • 執筆

    サイモン・チャールズワース

    Simon Charlesworth

    英国編集部
  • 撮影

    ジョン・ブラッドショー

    John Bradshaw

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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