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2020.12.14

笹本編集長のクルマのメインテナンスを30年以上に亘ってみてきてもらった、メカニックの圓岡興司さんが亡くなられました。享年82歳。

【笹本編集長コラム】今年一番残念なご報告 メカニックの圓岡興司さんが逝去

もくじ

圓岡興司さんが亡くなられた
90年代 お付き合いはさらに深まる

圓岡興司さんが亡くなられた

コロナ禍の中、今年の7月に、私のクルマのメインテナンスを30年以上に亘ってみてきてもらっていた、メカニックの圓岡興司さんが亡くなられた。享年82歳。

圓岡さんは、私と出合うはるか前に、1964年の第2回日本グランプリで、式場壮吉さんの乗るポルシェ904のメカをしていて、予選でクラッシュの後、徹夜で修理をして決勝に間に合わせた3人のメカの内の1人で、ポルシェ業界では右に出る人の無い程の「腕利きのメカ」であった。

圓岡さんはその後、当時のポルシェの輸入元であった三和自動車を辞め、世田谷のアウトバーン・モーターに移った。

確か1982年頃だと思うが、私がポルシェ356Bロードスターをカリフォルニアから個人輸入し、ナンバーも自分で取得したのだが、その時、排ガスの調整などをしてもらったのが初めての出会いで、その後、フェラーリ275を個人輸入したときも整備を付き合ってもらい、これが切っ掛けとなって、フェラーリの整備を全てお願いするようになった。

圓岡さんからは、新たなクルマを整備するときは、必ず、整備マニュアルを手に入れてくれ、と頼まれた。彼は、名門県立浦和高校の出で、非常にクレバーであり、クルマの基本構造をしっかり頭に叩き込んでから、そのクルマの特性を理解してメインテナンスをするので、どんなクルマでも、完全な整備ができていたのである。

圓岡さんが整備したキャブレターのクルマは、ポルシェの4カムであろうが、フェラーリの12気筒であろうが、アイドリングでそのまま放置しても、30分でも1時間でも、回り続けていて、それは見事なチューニングであった。

その後、アウトバーンも辞められ、フリーのメカニックとして、ワンボックスカーに工具を満載して移動し、オーナーのガレージでメインテナンスをするようになり、私のガレージにも、頻繁に来てもらうようになったのである。

 
 

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